まなナビ

【応募作文】12月はこんな作文が集まっています![6]

12月31日に締め切りとなった第5回「学びと私」作文コンテスト。1次審査を通過して第5回金賞候補作になった作文のうち一部をここで紹介します。テーマは「語学を学んで」です!

インドネシア語で日本を語る

 「星に誓って、君を一生愛し続けよう」
 インドネシア人の恋人(現在の妻)に宛てたラブレターにそう書きたかった。ところが、その時はまだインドネシア語の力が充分ではなくて、とんでもない表現にしてしまった。
 星(ビンタン)を動物(ビナタン)と誤って綴り、誓う(スンパー)をゴミ(サンパー)と混同していた。
「動物へのゴミで、君を一生愛し続けよう」
 恋人にそう告げてしまった。
 手紙を読んだ彼女は頭と腹を抱えたらしいが、日本語には「動物へのゴミ」という慣用表現があり、それをインドネシア語に直訳したのだろうと自分を納得させたという。
 外国語を習得するのは本当に難しい。文法を身につけ、単語を覚えるだけでも、膨大な時間と根気が必要になる。みっともない間違いを犯しては赤恥をかいて、それでも挫けずに学習を続ける強い意志の力も欠かせない。
 ところが、文法が身につき、語彙が増えても、まだその言語を会得したとはいえないから厄介だ。どの言語にも特有の文化基盤があり、その言語を使用する人々の価値観や考え方まで理解しないと母語話者には近づけない。
 例えば「星に誓って、君を一生愛し続けよう」と正確に伝えられても、それはあくまでも外国人のインドネシア語にすぎない。インドネシア人は決してそんな表現は口にしない。信仰心篤いインドネシア人にとって、一生の愛は「神に誓う」ものである。星なぞに誓うのはヘンな外国人くらいのものだ。
 そんな私の悪戦苦闘を尻目に、私たちの子どもは自然に二言語を操るようになり、両方の文化を身につけて成長した。異文化結婚から生まれた、ダブルスの子どもたち。二つの文化を楽々と行き来して、父親とは日本語で、母親とはインドネシア語で会話する。
 私の冗談が上手く伝わらず妻が首をかしげていると、子どもが流暢なインドネシア語で言い直してくれる。悔しいことに、子どもの通訳を経たジョークに妻は大笑いする。
 こういうダブルスの子どもたちが、日イ両国の交流を担い、より強固な友好関係を築いていくことを切に願っている。しかし、私だって傍観者でいるつもりはない。日イの懸け橋となりたいのは、まず私自身なのだ。
 インドネシア人女性と恋に落ち、彼女と意思疎通を図るため、という単純かつ純粋な動機で始まったインドネシア語との付き合いも、かれこれもう三十年になる。初期の目的は結婚まで漕ぎつけたことで達成できた。妻と意思疎通が取れたおかげで、子どもを協力して育てることもできた。子どもたちは二人とも成人して、子育てはもう終わりだ。
 さて、これからだ。
 私の夢は、インドネシア語で小説を執筆することである。「インドネシア語で執筆する史上初の日本人小説家」になりたいのだ。
 書きたいテーマは日本とインドネシアの文化の違いだ。考え方や価値観の相違、異なる文化背景を主題に据え、日本人の行動様式や思考形態をインドネシアの人に知ってもらうのが目的だ。のび太やクレヨンしんちゃんが典型的日本人と思われては困る。
 日本人男性とインドネシア人女性が恋に落ちる。若い二人は文化の違いに戸惑いながらも、愛の力と寛容な心で様々な困難を克服し、ついに結婚に至る。ここまでが第一作。結婚後に一緒に暮らし始めた時の文化摩擦が第二作。子どもをどう育てるかの文化摩擦が第三作。と、三部作の構想が既にできている。
 私の描く恋愛小説で、インドネシアの人がより深く日本を知り、両国の相互理解が進んでいく。それが私の夢であり、目標であり、生きがいでもある。

道産子さん(56歳)/北海道

言語とは架け橋

私は過去2年間、文字の羅列としての英語を、勉強していました。自宅で1人で、黙々と・・・。

独学によって英語力はそれなりに、上がったのだと思います。英文もそこそこ、読めるようになりました。シャドウイングも毎日、行いました。それはかなり、孤独な作業でした。

当時は英語を習得する事に対してとても高い壁を感じていましたし、抵抗感もありました。聞き取れない自分をもどかしく感じ、実力のなさをヒシヒシと感じました。英語ができる人は、凄い人なんだ、とも思っていた事を覚えています。でもそんなある日、多言語習得を目的とする、とある団体に出会います。

その団体には、先生やテキストは、存在しません。大人も子供も、関係ありません。半分遊び感覚で、みんなで楽しく言語を共有し、語学の探究を行うスタイルなのです。なんでも、赤ちゃんのように言葉を自然習得するのだとか。

「言語習得」という事に対する私の中の常識とは大きく異なるそのやり方に、最初は不信感さえ抱いていました。本当にこのやり方で、外国語が話せるように、なるのだろうかと。

ところが、団体の催すイベントに参加するうちに独学はいつの間にか消え失せ、意識的に英語を勉強する事はなくなっていったのです。

普通ならば当然、英語力はダウンするものと思われます。が、英語が話せるある国の子をホームステイで受け入れた時、独学をしていた時よりも話せる、意思の疎通が出来る自分に気がつきました。

とても不思議な感覚でした。英語の勉強、していないのに。独学をしていた頃、私にとっての英語は、文字の羅列でしかありませんでした。でも、目の前にいる人とコミュニケーションを取りたい、英語を通して気持ちを通じ合わせたい、そう思った瞬間、私の中で英語が人との間を繋ぐ、架け橋へと変化したのです。

今の私にとって英語とは、話せるから凄い、そういうモノではありません。英語を始め、様々な言語を話せる事はそれだけ、多くの人と繋がることができる、素敵なツールをたくさん持っている、という事だと感じています。

その事が分かってからは、多くの国の言葉により一層の興味が生まれ、言語習得に対して感じていた高い壁も、学ぶことへの抵抗感も無くなりました。これからも多くの人と繋がれるよう、たくさんの言語を、学んでいきたいです。そして世界を繋いでいく事ができたら、これ以上素敵な事は、ないのではないでしょうか。

ひよしりんさん/千葉県

 

英語は話してナンボ

「今日から英語で話そう」
 ある日、夫からそう告げられた。
ニューヨークでの語学留学中に出会い、結婚にまで至った彼。お互い英語への勉強意欲満々の英語大好きな二人ではあるが、生粋の日本人どうしである。
なぜ、日本語という共通言語あるにもかかわらす英語で話さないといけないのか!?
「いやだ」
私は反対した。

 しかし、譲らない夫。どうも英語に集中するために、自分の環境を英語一色に染めたいということだ。そんなに頼まれたら仕方ない、そうして二人の英語生活が始まった。
といっても、始めたばかりは全くスムーズにコミュニケーションがとれなかった。日本語で話していた相手と急に英語でなんて…。なんだか気恥ずかしくて、話しかけ辛くなってしまった。返事をする時も「うん」という代わりに“Yes”と答えなければならない。回りの目も気になるし、文法もとっさに組み立てられないし、言葉が出てこない…そんな私の苦労をよそに、旦那は満足げに
“How are you doing?”
と話しかけてくるのだった。

そんな、日本人どうしが日本語なまりの英語で会話する日々。これが、意外と勉強になり驚きの連続だった。
まず、英語に対する瞬発力が抜群に上がった。外国人が道を聞いてきた時。自然と口をついてくる。
“Okay, go straight and…”
外国人に対しても全く怖気づかない自分に気がついた。
続いての驚きは「語彙が欲しい!」という欲望だった。自分の表現力のなさや単調な受け答えに飽き飽きしてしまい、語彙を増やそうと自然と新しい表現を探すようになった。
街中の広告を見て「この意味は何だ!?」とスマホで調べる。今までは素通りしていたのに。海外ドラマを見ても、
“You are busted!”
というセリフを聞き、
「なるほど、いたずらがバレた時はこう言うのかメモメモ」と教科書以外からも発見を得られるようになった。

 もっとも不思議なことは「1年経った今ではすっかり夫との英会話に慣れてしまった」ということだ。夫が
“I think it is important.”
というだけで、貯金の話をしているということがわかってしまう。
そして気づいたのは、私たちは言葉の裏側にあるイメージを共有することでコミュニケーションをとっているということだった。夫とは今まで日本語で容易にイメージを共有していたが、それが英語での会話によって崩れてしまった。しかし1年かけ、少しずつイメージをすり合わせることで再びお互いの思っていることが共有でき始めたのだった。英語の上達だけでなく二人の関係の深まりまで実感できた。これも、「英語で会話しよう」という夫の突飛な提案のおかげである。

 自分と違う文化的背景を持つ人たちとコミュニケーションを取ろうと思うと、できるだけお互いのもつイメージを共有することが必須だ。となると語学を使って、さらにイメージのすり合わせをする必要がある。私は語学自体が目的となっていたけど、語学を使ってさらにその奥を目指すことこそが目的なんだな、と気づいた。語学を使って、誰と何をするのか。自分の未来が、またひとつ楽しみになった。

ヤマチャンドラさん(26歳)/兵庫県

 

いつかフランスに行くために

 一度だけ仕事で海外に派遣されたことがある。場所はフランス、パリ。はじめての海外にすっかり舞い上がっていた。
 少し時間があるからと、ガイドブックで目をつけていた雑貨屋さんを見に行った帰り道、道に迷ってしまった。言葉も通じず看板も読めない。当時は携帯電話も持っていなかった。たぶんこっちからきたはずだと頼った勘は、ことごとく外れていく。
 大事な打ち合わせの時刻が迫る。そもそも私はどこにいるのだろう?地図をもつ手が震える。背中にじっとりと汗をかいたこの時のことを私は忘れることがないだろう。
 帰国後、私はフランス語の勉強をはじめた。次にフランスに行く時には、絶対に道に迷わない。いや、迷ってしまったとしても、人に尋ねられるくらいの会話力はつけておきたい。いやいや、そんな大層な目標でなくていい。看板をみて、こっちかなと判断ができればそれで十分だ。
 ただ、三歳児の子育て中だった私には、時間やお金をたっぷりかけることは難しかった。そこでまず、NHKのラジオ講座で学ぶことにした。これならば毎日15分だし、数百円のテキストを買うだけでよい。
 ラジオは毎日カセットテープに録音し、通勤途中の電車の中で繰り返し聞いた。アルファベットの発音もうまくできなかったから、マスクをして小さな声を出しながら会社に向かった。口元を隠さなかったら、とても変な人だと思われただろう。
 毎日ラジオを聞くのはとても大変だった。次のフランスに行く時を目指して勉強を初めたけれど、その予定はまったくなかった。一方、ラジオ講座の内容は、どんどん高度になっていく。なんとか真似して発音しているけれど、つづりもわからないし、果たしてこの発音でフランス人に通じるのかもわからない。
 「がんばるには、目標設定が大事。着時点が必要」そんな言葉に出会ったのはフランス語の勉強に迷いが出た時だった。何か、目に見える形で成果をだそう。
 そこで次にフランス語検定に挑戦することにした。市販の過去問題集を用意して、まずは5級、4級と一年に1つずつレベルをあげていった。この勉強はラジオ講座よりもずっと辛かった。勉強の継続は、自分の意思の強さにかかっているし、わからないことが出てきたら自分で調べるしかない。そして、覚えられなければ、不合格というわかりやすい失敗が待っているだけだ。
 仕事と家事、そして母親という三つの役目の手を抜くことはできない。それでもフランス語をやりたいのか?と聞かれたら、よくわからなかった。けれど、久しぶりに検定試験を受けているという自分自身に、正直いうと私は酔いしれていた。かっこいいじゃん私。がんばっているよ私。
 フランス語をはじめた頃からすでに十年がたつ。あの頃のように、毎日フランス語に触れているわけではないけれど、忙しい毎日の中で時間を捻出してフランス語に熱中したことは私の誇りでもある。
 次にフランスに行くことになったら、の機会はまだ訪れない。けれどいつかきっと来ると信じ、今日もまたフランス語のテキストを開く。

水野千夏さん(42歳)/兵庫県

 

甘く見ていた中国語

 今から約十五年前、兵庫県にある工業大学大学院の二回生だった私は、学会でポスターセッションと呼ばれるパネルを使った研究発表を行うため中国へ行くこととなった。
 日程は三泊四日、場所は北京。学会は研究室のメンバー全体で赴くことになっており、自分の発表以外にも他のメンバーの発表を聴講する必要があったのだが、合間には空き時間もあった。
 そこでその空いた時間に皆で示し合わせて観光をしようということになった。研究発表は英語で行い、またメンバーの中には何度か外国に行っている頼れる先輩がいたため、絶対的に中国語を話す必要性はなかった。
ただ私は自分でもできるだけ話せるようにしておいた方がいざという時助かるだろうと思い、独学で中国語を学ぶことにした。
 期間は一ヶ月弱。その間、実験の合間に語学書を読んだり、TVの中国語講座なんかも視聴したりした。あまり時間はなかったが、それなりに覚えたつもりだった。
特に分かりませんという意味の『不明白(プーミンパイ)』という単語は絶対忘れないでおこうと思った。これさえ覚えていれば何とかなる、そう思っていた。だが甘かった。
実際北京に着いてみると……さっぱり分からない! 何を言っているのか少しも聞き取れなかったのだ。困った時は必殺の『不明白』で切り抜けようと思っていたのだが、質問自体されているのかどうかさえよく分からない始末だった。
 さらに言うと書いてある字も全然読めなかった。文字は日本の漢字と似ているからリスニングよりは理解できるだろうと踏んでいたのに、見たこともない漢字がいっぱい出てくるわ、知っている漢字でもその羅列が意味不明だわでもうお手上げ状態。
結果頭の中が『不明白』一色となってしまったのだった。
 ……おかしい。もう少しできると思っていたのに、なぜだ。正直言うと私は少々タカをくくっていた。だが私がそう思ったのにはある理由があった。
 私は学部生の時、選択科目としてドイツ語を履修していた。そしてそこそこリスニングやライティングもできるようになった。だから中国語も少し学べば何とかやりとりできるようになるだろうと思っていた。
 ところが現実は違った。ではその要因は一体何なのか。確かに学習期間が短すぎたこともあるだろう。だが一番の要因はそこではなく、ドイツ語と中国語を十把一絡げにしてしまったことこそが真の要因ではないかと私は考える。
 ドイツ語は英語と綴りや文法で似ている部分がある。そして私も多分に漏れず中学から英語を学んできた。そのためドイツ語に関しては英語で培った経験や勘で何とか理解できるところがあった。
 しかし中国語は当然英語やドイツ語とは全然異なるし、日本語とも似ているようで本質的には違う。そのことを度外視し、中国語もドイツ語と同じように経験や勘で何とかなると安易に考えてしまったのだ。
実際経験や勘は全く活かせず、結果悲劇が生まれたのである。
 全く愚かで浅はかだった。そんな私が北京で聞き取れたのは、結局立ち寄ったファーストフード店で聞いた『Wait、four minute』という言葉だけであった。
 そして北京観光では終始先輩のお世話になることになったのだった。
 私がこの体験で得られたこと。それは勝手な思い込みや先入観で物事を見ないことだ。それは言語に限らず全てのことに言える。私はドイツ語を学んでいたことでこのことをより痛切に感じることができた。
 今現在の私において学んでいる言語はないが、これから学習する機会が生じた際にはとりあえず独学はやめて、ネイティブの人に学んでみようと思う。

天津炒飯さん(49歳)/愛知県

外国語学習が母国語の認識に及ぼす影響

 世の中の行方を予測するのは、大半の人にとって困難極まりないことだろう。当然ながら、私もその例外ではない。けれども、ほぼ確実だと思われることを敢えて一つ挙げると、日本人にとっての外国語学習の必要性は、一層声高に唱えられるようになっていくのではなかろうか。国際化の趨勢が今後逆行するとは想像しにくく、世界的にはマイノリティに属する日本語のみで暮らしを成り立たせるのは難しくなっていくだろうからである。
 かく言う私自身には、特筆すべき外国語学習歴はない。公立中学校に入学してから英語を学び始めた他は、大学で第二外国語としてフランス語を少々かじった程度である。そして、謙遜などではなく、その両者において日常会話がこなせるほどの運用能力や、試験で高得点を取れるだけの知識などは持ち合わせていない。
 また、私には仕事関係でも、プライベートでも、外国人の知人はいない。海外旅行の経験も一度しかない。要するに、外国語を使用する機会は皆無に等しいのである。
 そのような国際社会の波から取り残されているとも言える立場から考えてみたい。果たして、外国語学習は大切なのだろうか。
 大方の予想に反するかもしれないが、私の答えは躊躇うことなくイエスである。外国語を学んだお蔭で、日本語を客観的な視点で見つめられるようになったためだ。現代の日本では国際化社会を過剰に意識して、英語を中心とする外国語学習の熱が高まり過ぎているがゆえに、日本語の勉強が蔑ろにされているという批判も度々聞かれる。そうした風潮を、私も否定するつもりはない。だが、比較対象となる外国語の知識を身に付けることによって、日本語の特徴を自覚できるようになる利点もあるのではないか。
 中国大陸から伝わってきた漢字を導入しつつ、独自に編み出した平仮名も併用することで、表現の幅を巧みに広げている日本語。物心つく頃には無意識に利用していた母国語を省みる機会が与えられたキッカケは、紛れもなく外国語学習だった。その結果、時代の変化に合わせて微調整しながらも日本語の伝統を連綿と引き継いできた祖先への尊敬の念とともに、日本人としての誇りも私の胸中には芽生えてきたものである。
 そして、日本語への関心が深まるにつれて、日本語を媒介に生み出されてきた日本文化にも興味が湧いてきた。こうして私は、いろは歌の素晴らしさや、俳句・川柳・短歌などの定型詩の奥深さも実感できるようになった。これらは外国語に翻訳すると、その魅力を大いに減じると思われ、日本語を母語にしているからこそ満喫できる特権だろう。
 母国語の魅力を認識することは、日常生活の様々な場面における感性を高めて、暮らしに彩りを添える効果があるものと思われる。国際社会を生きていく上での必須教養としての側面もあるが、日々の充実感を引き出すためにも外国語を学ぶことは有意義なのではなかろうか。

成本孝宏さん(33歳)/埼玉県

 

(一部の作文で編集室が文字の修正をしています)

過去の「学びと私」コンテストの金賞作品はこちらから
11月(第4回)の金賞3本が決定しました
10月(第3回)の金賞3本が決定しました
9月(第2回)の金賞3本が決定しました
8月(第1回)の金賞3本が決定しました