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風船爆弾、怪力光線、偽札製造。帝国陸軍の秘密戦を支えた登戸研究所

「陸軍登戸研究所の誕生から80年」

神奈川県川崎市多摩区生田の丘の上に広がる明治大学生田キャンパス。ここは戦前、大日本帝国陸軍の研究施設、登戸研究所があった場所だ。そこで開発されていたのが、陸軍の「秘密戦」のための兵器だった。「陸軍登戸研究所の誕生から80年」と題した明治大学の公開講座に「秘密戦」を学ぶ。

「秘密戦」は「インテリジェンス」のひとつ

近年、国際政治や軍事を語る際に、「インテリジェンス」という言葉をよく見かける。情報を収集し分析すること、すなわち「諜報活動」のことである。諜報にも合法的なものと非合法のものがあり、後者は一般にはスパイ活動とも言われる。

この「インテリジェンス」、戦前の陸軍では「秘密戦」と呼ばれていた。陸軍参謀本部は、この秘密戦を次の4つに分類していたという。
諜報――密かに情報を収集する。
防諜――スパイの摘発などの情報防衛。
宣伝――自らが有利に立つ情報を流す。
謀略――相手につかませた情報により自らに有利な状態をつくる

秘密戦を遂行するためには、これに携わる人材を育成し、同時に秘密戦に使用するアイテムを作る必要があった。人材は、憲兵学校や陸軍中野学校において育成された。そして、アイテムを作る機関として今から80年前の1937年に誕生したのが、陸軍登戸研究所である。

登戸研究所は、現在の明治大学生田キャンパスの地にあった。その生田キャンパスで、明治大学リバティアカデミー(生田)の2017年春季講座として、「陸軍登戸研究所の誕生から80年」と銘打った講座が開かれた。

秘匿名称「登戸研究所」

明治大学文学部教授で平和教育登戸研究所資料館館長の山田朗先生は語る。

「登戸研究所は、この小高い丘陵の上にありました。電波兵器を開発するには高台が有利だったからです。研究所では中国経済を混乱させるために偽札も作っていました。偽札作りには水が必要なので、高台に水をくみ上げるのに苦労した、という話も伝わっています」(山田先生。以下「 」内同)

山田先生によれば、もともと日本陸軍には兵器の開発に携わる陸軍技術審査部や陸軍火薬研究所があったという。第1次世界大戦で戦車や飛行機、毒ガスといった新兵器が登場したことから、科学技術を軍事に活用することに注目が集まり、1919年に陸軍技術本部が設けられ、その管轄下に陸軍科学研究所が設置されたという。

この陸軍科学研究所が、何度かの組織改編を経て、1937年に陸軍科学研究所登戸実験場が新設。2年後の1939年に本格的な秘密戦遂行のため、陸軍科学研究所登戸出張所に改編。この出張所の秘匿名称が「陸軍登戸研究所」である。

「研究所は、3つの科に分かれていました。第1科では人体を攻撃する「怪力電波」などの電波兵器や特殊無線、宣伝用の気球などを開発していました。第2科は毒物や薬物、謀略用に細菌兵器、謀略用の機材などの開発を担当。第3科では偽札や偽の証明書類などの製造を行っていました」

1944年ごろの最盛期には、登戸研究所には100棟以上の建物が建ち並び、1000人もの所員が働いていたという。

登戸研究所航空写真 1947(昭和22)年米軍撮影(国土地理院所蔵)

怪力電波に執着し、レーダーの開発が遅れた日本

第1科では、電波で人体を攻撃する怪力電波や、超音波で攻撃するレーダー兵器などが開発・研究されていた。ちなみに、怪力電波は「くわいりき(怪力)」から「く号兵器」、超短波レーダーは「ち号兵器」と呼ばれていた。

「当時、レーダー兵器の研究が一番進んでいたのはイギリスでした。しかしイギリスの対空レーダーの大元の技術は、日本で発明された八木アンテナのものだったのです。しかし当時の陸軍は「く号兵器」に力を注ぎ、レーダーの開発は遅れました。事前に察知するよりも、来たものを落とすほうに注力したともいえます」

風船爆弾は扱いが難しい兵器だった

また、第1科では、アメリカ本土の攻撃を目指した「風船爆弾」の開発も行っていた。その名称は「ふ号兵器」である。直径10mほどの和紙で作られた風船の接着剤に選ばれたのは、こんにゃくだった。

「和紙をこんにゃく糊で張り合わせると、雨に濡れても溶けず、ゴムよりも気密性が高く軽い風船が作れたそうです。一つにつき3千枚の手漉き和紙が使用されたといいますから、まさに手仕事での兵器製造です。高度が下がってくると、ゴンドラに積んでいる砂袋を自動的に落として高度を維持する装置を備え、アメリカ西海岸までの到達時間はおよそ50~60時間でした」

この風船爆弾、登戸研究所の第2科で開発されたウィルスを載せてアメリカを攻撃するというプランもあったが、実際には爆弾や焼夷弾を搭載して発射されたという。その「戦果」はオレゴン州での死者6人にとどまったが、アメリカ政府や軍に与えた心理的な効果は、けっして小さくなかったという。

風船爆弾には大きな欠点があった。上空1万メートルに強い偏西風の吹く冬場にしか使えなかったことだ。そのため1月から4月にかけての時期限定兵器だった。しかしその季節は降雪がある。本当は夏場に落として山林火災を起こしたいのに、冬場にはあまり戦果があがらない。そこで、夏でも偏西風が吹く1万5000メートルまであげられる改良型も試作された。しかしそのためには直径15mまで大きくしなければならず、実用化はならなかった。

また、この兵器の困ったところは、本当に届いたかどうかわからないところだと山田先生は言う。1000発くらいが到達したとされるが、アメリカは発表せず、実数はわからないという。

 

登戸研究所で印刷された偽造法幣(明治大学平和教育登戸研究所資料館)

紙質が悪いものほど偽造が難しい

第3科で製造していたのが中国紙幣の偽札だ。その目的は、中国で必要物資を調達するためと、大量の偽札を流通させて経済混乱を起こすためだった。当時の額面で40億円ほどが製造されたというが、これは当時の日本の国家予算約200億円の5分の1に相当する額だった。

2014年、巴川(ともえがわ)製紙所(本社・東京)の静岡市駿河区にある工場で、孫文などのすかしが入った特殊な用紙が見つかったが、これが登戸研究所で製造された偽札だった。

先の風船爆弾にも使われたように、当時の日本の製紙技術はすばらしかったらしい。第3科では偽パスポートも作っていたが、ソ連のパスポートは紙質が大変悪く、その悪い紙質を再現するのが大変だった。中国紙幣の本物はアメリカやイギリスで製造していたが、戦争末期にはその質が劣ってきて、それをまた真似するのに高い技術が必要だったという。

山田先生は語る。

秘密戦というのは、勝っても負けても一切公表されない、けっして歴史に記録されることのない裏側の戦争です。登戸研究所は空襲も受けず、戦後はGHQに接収され、ほとんどの資料がアメリカへ渡りました。いま私たちがこうして登戸研究所の研究内容を詳しく語れるのは、元所員だった伴繁雄さんが手記を残してくれたからです。それが2001年に出た『陸軍登戸研究所の真実』でした。 渡辺賢二先生(元明治大学兼任講師)が伴さんの元を訪れ、伴さんが40年の沈黙を破って研究の内容を話し始めたことから、ようやく表に出てきたのです。しかし伴さんが手記をまとめてから出版まで、10年を越える歳月がかかりました

明治大学生田キャンパスに、登戸研究所資料館が開館したのは2010年。戦争を語り継ぐには、息の長いリレーが必要だ。

2018年明治大学リバティアカデミー春講座「陸軍登戸研究所第二科の謎にせまる」は5月12日に開講する。

◆取材講座:「陸軍登戸研究所の誕生から80年」明治大学リバティアカデミー 生田キャンパス

文・写真/安田清人(三猿舎) 写真提供/国土地理院ウェブサイト、明治大学平和教育登戸研究所資料館