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西行と定家。44才差の才能が名応酬見せた歌合わせ

Basico

『宮河歌合』の跋(ばつ=後書き)に添えられた定家の歌

西行と定家。日本の古典文学史上に燦然と輝く大歌人だ。年齢差44歳のこの2人は、西行の最晩年に一緒に仕事をすることとなった。それが、西行の『宮河歌合(みやがわうたあわせ)』だ。早稲田大学エクステンションセンターの「和歌と伝統文化」で、早稲田大学文学学術院教授の兼築信行(かねちくのぶゆき)先生は、2人の交流を興味深く語った。

3人が詠んだ「秋夕暮れ」

古典にあまり興味関心のない人の間でも、「三夕(さんせき)の歌」は知られている。「秋の夕暮れ」を詠んだ三首の名歌だ。

寂しさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮れ(寂蓮)
心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ西行)
見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮れ 定家)

この大変有名な歌3首を詠んだ歌人3人のうち、西行と定家が今回取材した講座のテーマだ。まずは西行の紹介から始めよう。

西行最晩年に伊勢神宮に奉納

西行(1118年生-1190年没)は武士であったが、23才で出家して漂泊の旅を重ねながら数々の名歌を残した大歌人。「願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ」と詠んだとおり、旧暦二月満月の日に亡くなったことは有名である。

西行は晩年、都を離れて伊勢に住み、二見が浦に庵を結んだ。仏教者であったが、伊勢神宮の神主とも深い付き合いがあり、伊勢神宮に最初に参拝した僧だという。神道と仏教の関係の中では非常にユニークな人だったと、兼築先生は語る。

伊勢神宮と近しい関係にあった西行は最晩年、自分が今までに詠んだ歌(約2300首ともいわれる)の中から選んで歌合(うたあわせ)を作り、伊勢神宮の内宮(ないくう)・外宮(げくう)に歌を奉納しようと思い立つ。

歌合とは、左方と右方の2つのチームに分かれて、それぞれ歌を詠み競い合う、一種のチーム競技だ。柔道や剣道の団体戦のようなものを、歌で行う。もちろん通常は何人かの歌人で2チームに分かれて行うのだが、なんと西行は、すべて自分の歌だけで左右それぞれ36首、計72首の歌合を2つ作った。内宮に奉納するものが『御裳濯河歌合(みもすそがわうたあわせ)』、外宮に奉納するものが『宮河歌合(みやがわうたあわせ)』。御裳濯河は内宮神域を流れる五十鈴川のことで、宮河はその下流に伊勢神宮がある。

「自分が今までよんできた歌から72首を自分で選び、試合形式に編集したものがこの2つの歌合です。まさに西行自撰のベストチョイス。しかも、伊勢神宮の内宮外宮に奉納する、大変重々しいものでした。時はちょうど源平の争乱が終わったころ。西行は自身の歌人としての人生の総決算として、これを思い立ったのです」(兼築先生、以下「 」内同)

事件を起こしたばかりの定家に

歌合は本来、チーム競技なので、勝ち負けの審判をする人がいる。それが判者(はんじゃ)で、審判の内容を判詞(はんし)という。西行は『御裳濯河歌合』の判詞を『千載和歌集』の撰者であった歌人・藤原俊成に依頼した。そして『宮河歌合』の判詞を、俊成の子の定家に依頼したのである。

藤原定家(1162年生-1241年没)は当時25才。のちに『新古今和歌集』の撰者になり、その『新古今和歌集』に西行の歌は94首(入集数1位)入るのであるが、その頃は定家はまだ侍従で、しかも事件を起こしたばかりだったという。

定家24才の時、大嘗祭(だいじょうさい)の時に行われる五節(ごせち)の舞の夜、事件は起きた。酒席で源雅行(みなもとのまさゆき)から嘲られた定家は、思わず紙燭で顔を殴ってしまう。そして昇殿を禁じられ、蟄居させられた。父の俊成は定家を救おうと、時の権力者である後白河院に直訴状を出す。この直訴状が、神戸市の香雪美術館に所蔵されている「藤原俊成自筆書状(三月六日/左少弁殿宛)」(「あしたづの文」と呼ばれている)。後白河院は俊成の願いを聞き入れ、定家は再び昇殿を許されたという。

西行が『宮河歌合』の判者に定家を指名したのは、この事件の直後だった。定家に才能を見出していた西行は、将来に大きな期待を込め、精進への道の一つとして依頼したのだろうと兼築先生は言う。

西行と定家の歌とが最後に

しかし、定家の判詞はなかなか進まなかった。父の俊成はあっという間に『御裳濯河歌合』の判詞を書いたが、定家の『宮河歌合』の判詞はいっこうに仕上がらない。あまりに時間がかかるので、西行からは督促の手紙まで届いたという(三の丸尚蔵館所蔵『御物本円位仮名消息』)。ようやく判詞を付け終わったのは、依頼から2年も経った頃だった。

定家が感じていたプレッシャーがどれほどのものであったか、また一方で、どれほどありがたいものであったか、定家は跋文(ばつぶん)に、「あまりに歌が素晴らしく、判詞を何度も諦めようとしたけれども、お約束したことでもあり、御縁をいただいたことでもあるので、何とか書いた」こと、「出世できないでことを悩んでいる私を憐れんでくださった」ことを書き記している。そして最後に定家の歌があり、それに対する西行の歌が載る。

君はまづ憂き世の夢をさめぬとも思ひ合はせむ後の春秋  (定家)
    御返
春秋を君おもひいでばわれはまた月と花とをながめおこせん  (西行)

あなたが今生の世を終えられても、また来世の春秋に思い出してくださることでしょうね、この歌合せを作ったことを。(定家)
春秋につけてあなたが思い出すのならば、私も月や花につけてあなたを思い出すことでしょう。(西行)

そして、西行が如月の望月の日に亡くなると、定家は大変感銘を受け、藤原良経、慈円とともに『花月百首』をつくる。その後、『新古今和歌集』の撰に際し、定家は西行の歌を和歌集の中で最も多い94首も入集させる。

兼築先生は言う。

「西行の最晩年に交流を持った定家ですが、西行と定家は歌に対する価値観がすこし違うのです。よく歌作りと歌詠みという言い方がありますが、西行は生まれつきの歌詠みで、歌が自然に詠めてしまう。対して定家は歌作り。何のために歌を詠んでいるかという本質が少し違うんですね。しかしそんな定家も、晩年は西行のような歌を詠んでいます」

 

取材講座:「和歌と伝統文化──西行と定家」(早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校)

取材・文・写真/まなナビ編集室