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竹宮惠子氏講演「私をマンガに導いてくれた3冊」

マンガは私の教科書だった─竹宮恵子氏

『風と木の詩』『地球へ…』などで、少女マンガと少年マンガの垣根を軽やかに飛び越え、マンガの新時代を拓いた竹宮惠子氏(京都精華大学学長)。マンガ家人生を振り返る講演会「マンガはなぜ人を惹きつけるのか」が、2017年1月、明治大学中野キャンパスで開かれた。その講演録を3回に分けて掲載する。第1回目は、マンガに目覚めてから、マンガ家になろうと決意する中学時代まで。

「謝れないときどうするか」もマンガから

「マンガの魅力は何か」と問われて、よく言われるのは、説明力、インパクトの強さ、吸引力、同調性、簡潔性、記憶に残りやすい、などですね。でも今日は、そういう一般的な話ではなく、私の個人的体験にもとづくマンガの魅力をお話ししようと思って来ました。

私にとってマンガは非常に教育的なものでした。

世の中には悪いことがたくさんあるけれども、それを主人公がどうやって解決していくのか。あるいは、小学生の仲間内で喧嘩をしてしまったけれど謝れないときにどうすればいいのか。そういったことを教えてくれるのは、親や教師ではなかく、マンガでした。マンガを通して共通体験をすることで、「あ、こういうときにはこうすればよかったんだ。こういうふうに言えばよかったんだ」ということを学んだのです。

それは決して誰かから説明されたり説得されたりしたわけではなくて、私がマンガの中から勝手に読み取って会得したのだと思います。

しかし私が子供の頃、マンガは決して賞賛される存在ではありませんでした。「マンガは勉強の邪魔になる」「マンガを読みふけっているせいでうちの子供は出来が悪い」、そんなふうに言われることのほうが多かった。でも私にとっては、マンガこそ心に積もる疑問を晴らし、未来を開く希望を与えてくれる存在でした。

12才の小学生がバイブルのように

・『マンガのかきかた』(冒険王編集部編、1962年)
・『マンガ家入門』(石森章太郎著、 1965年)
・『続・マンガ家入門』(石森章太郎著、1966年)

この3冊はマンガ史を語る上で欠かせない作品ですが、私をマンガ道に導いてくれた本でもあります。『マンガのかきかた』が出た昭和37年当時、私は12才でまだ小学生でしたが、買って読みふけっていました。

特に『続・マンガ家入門』には、『マンガ家入門』の読者たちから届いた手紙に書かれていた質問に石ノ森先生が答えるというページがありました。これは当時としては画期的な試みだったと思います。

あの頃はまだ手紙というものが盛んで、マンガ誌にとってはアンケートと並んで、この読者からの手紙をどう解釈するか、というのは非常に重要なことでした。今のようにプライバシーの意識などもありませんでしたから、住所も書かれた状態で読者からの疑問が誌面に載っていました。まだメールなどがなかった時代に、読者同士で交流をもってほしいという意図もあったはずです。

「私は徳島の田舎でこの本を読んでいるけれども、遠くの地方にも同じ本を開いて、同じ疑問を持っている人がいるんだ」

 そう実感できることは、私にとって非常に大きなことでした。それはまさに「世界が開ける」ということだったんですね。

 この3冊は本当にバイブルのように読みふけっていました。他のどんな本よりも真実が書いてあると思いました。要するに、私にとって一番知りたい謎を解いてくれた存在だったわけです。 当時このようなマンガの描き方本が出たということは、マンガが躍進する気運の中にあったとも言えるでしょう。私は「マンガを描く」ことにも目を向けるようになり、「描くためには何が必要か」ということも、こういった本を通して学んでいきました。

今はマンガ原稿用紙が売られていますが、当時は印刷する版面のサイズに合わせて自分で紙を切って原稿用紙を作るという非常にアナログな作業が必要でした。マンガの描き方そのもの、原稿用紙の作り方そのものを知る手段も、本に依るしかありませんでした。

徳島の書店主の助けを借りて

ただ、そういった情報が載った本があるらしいと知っても、すぐに買えるわけではなかった。当時私が住んでいた四国徳島の郡部では、近所に書店こそあるものの、そこに常に最先端の本が並んでいるわけではありませんでした。今ほど流通が発達していませんでしたから、新刊本が田舎のほうにまわってくる率というのが低かったんです。東京で得られる情報と、徳島の田舎で得られる情報にはものすごい格差がありました。

(ほしい本は近所の本屋さんに売っていないし、親にはマンガの描き方の本がほしいなんて口が裂けても言えない。どうしよう……)

困った私は書店に行って、おずおずと独り言をつぶやきました。「ここにない本はどうすれば手に入るのだろう」。するとそれを聞いた本屋さんが「なければ取り寄せますよ」と声をかけてくれたのです。こうして初めて親や教師以外の大人である書店の店主の助けを借りて、本の注文ができました。当時の私にとっては、自分のために本が遠くから届くというのは全く信じられないことでした。

この経験は、社会にはそういった流通システムがあるのだと知るきっかけになりました。また、そういった社会システムの恩恵を自分も受けることがあるとわかり、興味を抱くようにもなりました。 ほしい本を注文し、それが届くのを待つ時間は、ものすごくファンタジーなものでした。 今は「待つ」という機会がずいぶんなくなりましたし、自分がそれを手に入れられるかどうかということについてもすぐに結論が出ます。当時は、ひたすら待つよりほかなかった。でもその待っている間に、「自分はなぜこんなにこの本がほしいのか」「手に入れられたらこの本で何をしたいのか」といったことを、じっくりと考えることができました。

今の若者に歴史の話をすると「ファンタジーですね」と言われることがありますが、あの頃の待つ時間というのも、ファンタジーだったと思います。

「成績さえ下げなければ読んでいいよ」

小学生時代からマンガを描き始め、中学時代にはマンガを描くことが当たり前になっていました。でもマンガを描いていると知られるのは恥ずかしいと思っていましたし、親にも内緒にしていました。 

当時の私のマンガ制作で活躍したのが『世界文学全集』です。収録されている文学作品自体も大変面白いのですが、親が部屋に入ってきたときに『世界文学全集』の間に原稿をさっと隠して読書をしているフリをしていました。大人になって私は何度か引越しをしましたが、中学時代の“恩義”に報いるような気持ちで、この『世界文学全集』だけは捨てずにずっと大切に取ってありました。

親も、私がマンガ好きであること自体は気づいていて、あまりよろしくないと思っていたようです。ただ、母は女学生時代に中原淳一の大ファンで、その絵を真似て描いてみたりしたこともあったようで、マンガにも多少の理解がありました。

当時の母親というのは非常に忙しく、家庭の中でゆっくり本を読むような姿を見ることはなかったのですが、私がマンガを借りてくると、母から「あとでちょっと読ませて」などと言われることもありました。当時母は、水野英子先生の『星のたてごと』という作品の大人っぽいロマンスが気に入っていたようです。

ある日、「成績さえ下げなければマンガを読んでもいいよ」と言われ、私は晴れて正々堂々と読めるようになりました。成績を下げないという条件付きでしたが(笑)

私は小さなころから少年マンガをよく読んでいましたが、それは少年マンガにはたくさんのマンガ付録がついていたからです。中学に入ると友達同士でマンガの貸し借りをする機会が増えました。少女マンガは女の子どうしで貸し借りできるけど、男の子に気安く声をかけるのは恥ずかしい。そんなとき、クリーニング店のお兄ちゃんが、少年サンデー、マガジン、キングを全て揃えていることを聞き出し、頼んで貸してもらうことになったのです。   

お兄ちゃんが持ってきてくれる12冊の束

クリーニング屋のお兄ちゃんも忙しいので、荷物の少ないときに3か月分くらいをまとめて持ってきてくれます。週刊ですから3か月だと1誌12冊。それが3誌あるのだから全部で36冊。その積み上がった束を読んでいくのが本当に幸せでした。

2、3か月分の週刊誌をまとめ読みする習慣は、図らずもマンガの作り方を学ぶことにつながりました。

ある程度の分量をまとめて読むことは、「なぜこういうふうに話をつくっているのか」ということに、否が応でも気づかされます。「なるほどここで大事なきっかけをつくっておいて、あとでこう解決するんだ」など全体を見渡すクセがつきました。もし1週間ずつ読んでいたら、何も気づかずに、作者や編集者の思惑に踊らされるだけになっていたと思います。これは非常に貴重な、よい経験だったと思っています。

私が中学時代の1964年は、ちょうど東京オリンピックの年でした。親友がドン・ショランダーというアメリカの水泳選手に夢中になって、「あんなにかっこいい人がいるならアメリカに行く」「アメリカに行きたいから英語を学ぶために外語大に入る」と言うようになりました。それを聞いて私も、〈自分の夢〉というものを前に進めなきゃという気になっていったのです。

当時、地方の田舎に住んでいる人間にとって、「東京へ出て漫画家になりたい」というのは、とても遠い夢でした。でも、アメリカ行きを熱く語る親友と毎日接する中で、私も自分の夢にもっと熱くならなきゃという気持ちになっていきました。

私は、映画のストーリーだと言って、親友に自分のマンガのストーリーを話したりしていました。私は自分の考えたストーリーが人にきちんと理解されるものかどうか、とても気になっていたのです。でも、それが私の創作であることはすぐにバレてしまい、実は自分の夢はマンガを描くことだと打ち明けることになりました。

東京オリンピックの年は、私が初めて他人に「漫画家になりたい」と明かした年であり、アメリカ行きを目指す親友とお互いの夢を誓い合った年でもあります。

〔続きの記事〕
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取材講座データ

マンガはなぜ人を惹きつけるのか 明治大学リバティアカデミー公開講座(中野校) 2017年1月14日

2017年1月14日取材

文/露木彩 写真提供/竹宮惠子、明治大学