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竹宮惠子氏講演「焚き付けにした少年探偵団マンガ」

「私をマンガに導いてくれた3冊」から続く)
マンガ家竹宮惠子氏の講演は、いよいよ高校時代に入る。さまざまな新しい出会いが、のちの傑作の誕生の芽をはぐくんでいく。少女がマンガ家へと成長していく物語である。

ズボンの裾にシワを入れる石森章太郎先生

高校時代になると、中学のときにはなかった古文や地学といった科目に出会います。私は自分がそれらをとても好きなのだと気付きました。「勉強」のなかにもいろいろな種類があって、得意で好きになるものがあるのだということを、私は高校に入って初めて知ったのです。

付き合う友達のタイプも広がりました。私は誰とでもすぐに仲良くなれるほうではなかったのですが、高校になると少しは社会的になってきて、“友達の友達”のような人とも付き合うようになりました。

そこで出会ったのが、親しい友人の中学時代の友人。そのお姉さんが手塚治虫先生の信奉者だったことから、私の世界はいっきに広がりました。初めて同好の士という人に出会えたのです。東京に住んでいればマンガ好きの仲間も見つかったのでしょうが、徳島に住んでいた私にとっては、それすらも難しいことでした。

彼女を通して手塚治虫先生の「ロック冒険記」や「新撰組」を読ませてもらい、長いストーリー展開のマンガの存在をこのとき初めて知りました。

私が高校時代に『COM』という雑誌が創刊されました。そこで手塚治虫先生は「火の鳥」を、石森章太郎先生(のちに石ノ森章太郎と改名)は「章太郎のファンタジーワールド・ジュン」という作品を連載していました。石森先生の『マンガ家入門』をバイブルにしている私に、手塚派の彼女は時折、皮肉めいたことを言うこともありました。例えば「石森先生は肩やスボンの裾にシワを入れる。これは漫画ではなくて劇画だ」などということです。

当時の私は洋服のシワを入れるだけで漫画ではないと言われるなんて、とびっくりしたものです。でもその一方で、手塚先生が礎を築いた「漫画派」というものをとても大事にしている人がいるということ、そして「マンガ」も変遷していくのだということを発見したのです。これは私にとって、とても大事なことでした。

私は手塚先生よりも10年ほど世代があとの石森先生を追っていたわけですが、いわゆる手塚派の人たちの意見を否定する気にはなりませんでした。自分が知っていた石森派とは違う流れが連綿とあって、それを大切にしている人のことを否定する気にはならなかった。手塚派であれ、石森派であれ、変わっていくマンガを憂いたり、あるいは変わっていくマンガを受け入れていく若い世代同士、その仲間を大切にしようと思いました。そして、手塚先生のポイント・石森先生のポイントは何なのか、劇画とは何なのかを考えるようになりました。

西谷祥子先生からの連絡

私にとってマンガとは「愛さなくてはならないもの」でした。「マンガが好き」などと言うと、「は? マンガは子供が読むものでしょ」「トイレの落書きと一緒じゃない」と返され、とても「マンガ家になりたい」などと言えるような雰囲気ではありませんでした。

当時の大人はマンガと聞くと必ず否定してくるので、かえって「私はマンガが好きなのです」「何があってもマンガの見方をするのです」と自分で固く決めなければならなかったのです。私はマンガが大好きだし、マンガが力を持つ存在になっていくことを信じていました。

ついに私は高校の進路相談で、担任の先生に「じつはマンガ家になりたい」と告げました。その一言をいうのに、私はどれだけ自分を鼓舞しなければならなかったでしょう。ところが、先生は頭ごなしに否定することなく、「その若さで将来を決められることは素晴らしい」とほめてくださいました。担任は古文の先生で、私がクラスに置いてあるノートに書き続けていた童話を全て読んでくれていて「とても面白いので児童文学作家になればいいのに」とも言われましたが、私は「いえ、児童文学ではなくマンガなんです。マンガ家は16歳でデビューする人もいるので焦っています」と話しました。

実際このとき里中満智子さんが16歳でデビューをしていました。私は里中さんと同じ時期に投稿していましたが、里中さんは入選で、私は「もっと頑張りましょう」。自分でもその能力の差はよくわかっていましたから、やみくもに投稿するのではなく、実力をつけてからしかるべきところで投稿しようと思うようになっていました。自分に対する社会の評価を客観的に見られるようになってきたのだと思います。

高校3年の10月くらいに、石森先生のお仲間で少女マンガ家の西谷祥子さんから作品の応募をしませんか、という連絡をいただきました。西谷さんを担当している編集者の方が「どうやら竹宮惠子という人は西谷作品が好きなようだから、本人から話をすれば応募するだろう」と考えて連絡をさせたようでした。実際にマンガを連載しているプロからそのような連絡がきたことは、当時の私にとって衝撃的で光栄なことでした。

それで、『マーガレット』に投稿する作品を描くために徹夜をして、人生で初めて翌日の授業をフケました。それまでは母親の手前もあって授業をサボるなんてことは全くなかったのですが、このときばかりはもうどうしようもなかったのです。

中学時代から書き続けていたハヤブサ純のマンガ

99話まで描いたマンガを風呂の焚き付けに

中学時代にずっと描き続け、99話まで描いていた『ハヤブサ純』という少年探偵団マンガを、風呂の焚き付けにしたのもこの頃です。趣味で私的な楽しみとして描くものと、プロとして描くものを明確に分けたいと考えたからです。あっさりと焚き付けにされてしまった『ハヤブサ純』ですが、描いていたのは少年たちの集団の話。ここですでに私の描きたいものの正体が現れていたわけです。

満を持して選んだ投稿先は『COM』でした。西谷先生から促されて『マーガレット』にも投稿しましたが、私が描きたいのはどちらかというと少女漫画ではなく児童漫画でしたから、主に『COM』に投稿していました。手塚・石森の連載に加えて、新人教育に特化したコーナーのある『COM』は私のためにあるような雑誌だと感じていました。

投稿時代であった高校時代は、『COM』と肉筆同人誌(生原稿の回覧誌)『宝島』に毎月投稿することばかりを考えていた幸せな時代だったと思います。

『宝島』には、石森先生に「私は徳島に住んでいて同人仲間がいないので寂しいです」と手紙で相談したことがきっかけで、紹介してもらって作品を送るようになりました。『宝島』の代表の方から「仲間になりますか?」と連絡がきたときは夢のようでした。作品ができあがると、「きちんと届くのだろうか」「できれば『COM』に掲載されて批評されたい」と願うような気持ちで毎回ポストに投函していました。

この頃、石森先生のご自宅に泊めていただいて、原稿を見ていただいたり、出版社まわりをしたりといった、今考えるととても怖れ多いようなことも何度か体験させていただきました。当時は石森先生が読者に向けて「プールができたから遊びにおいでよ」などとメッセージを載せることがあって、実際にバックに水着をしのばせて遊びに行ったりしたものです。

17才「ここのつの友情」

1967年、17才のとき、『COM』に投稿した「ここのつの友情」が新人賞に佳作入選し、デビューを果たします。『マーガレット』に投稿した「リンゴの罪」と『COM』に投稿した「かぎッ子集団」という作品も、ほぼ同時に雑誌に掲載されました。

最初から締め切りを守れない新人であったということは、自伝の『少年の名はジルベール』(小学館刊)にも書いてある通りです。新人ながら複数の出版社の締め切りを抱えてしまい、旅館で缶詰作業をすることになるのですが、そこで出会ったのが、本宮ひろ志軍団です。

石ノ森先生の自宅でたくさんのアシスタントさんが作業をする現場を見たことはありましたが、もっと若い作家の方もアシスタントたちと一緒にマンガを描いている姿をここで初めて目の当たりにしました。のちに私も「トランキライザープロダクト」というプロダクションを設立します。トランキライザーとは精神安定剤の意味で、石ノ森先生の『ミュータント・サブ』の前書きにあった「私はマンガ界のトランキライザーになりたい」という言葉からいただきました。

憧れというものが形を成していく、私はそのただ中にいました。

(続く)

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取材講座データ

マンガはなぜ人を惹きつけるのか 明治大学リバティアカデミー公開講座(中野校) 2017年1月14日

2017年1月14日取材

文/露木彩 写真/明治大学