古代の人々はどのような場所に社を築いたのか。それを考えることで、どのような場所を神聖なものと見ていたのかがわかるかもしれない。立命館大学歴史都市防災研究所の青柳憲昌先生(同大理工学部講師)による土曜講座「歴史文化都市の防災と建築史学」は、大阪における「式内社(しきないしゃ)」の立地と災害の危険性の関係についての興味深い講座だった。
大阪府の式内社は古墳の分布と一致
青柳先生によれば、大阪府には178もの式内社があるという。式内社というのは、平安時代にまとめられた『延喜式』に記載された官社のこと。その式内社は、先史時代の集落や古墳の分布とよく一致する。そのことは平坦地に立地するものが多いことを示している。
平坦地以外、たとえば山地なら、谷筋ではなく尾根筋に立地するケースが7割を占める。水辺なら、直線になった河川沿いなど、災害の危険性が比較的低い土地に立地するケースが過半を占めるとのこと。たとえば、住吉大社も上町台地という高台に建てられた神社なのだ。さらに、大和川が付け替えられる前の旧大和川の自然堤防の上に築かれたものが多いという。
大阪は、江戸時代に「八百八橋」と呼ばれるほどの水都だった(実際には808も橋はなかったらしいが、それくらい川が縦横に流れていたということのたとえだろう)。
立地を知れば神社がもっと身近に
災害の危険性が高い地形に作られた式内社の一つである、淀川南流に位置する堤根神社は、河内湖に流れる低湿地帯の堤防のそばに作られている。
この堤防は、『日本書紀』仁徳天皇紀に載る茨田堤(まんだのつつみ)だと伝えられている。古代、肥沃であったがたびたび高潮や洪水の被害にみまわれた河内平野に築かれた茨田堤。それは水害から農業を守り、農耕と水をつかさどる象徴だっただろう。この地域にある他の式内社に祀られるのも、水害から人々を守る神が多いという。
いっぽう、わざわざ危険な場所に建てられた社もある。たとえば大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分にある建水分(たけみくまり)神社は、いまは山の上に立地しているが、古くは水越川のほとりにあったとされる。まさに扇状地の突端にあたり、危険極まりない立地ではあるが、その立地にこそ神性を見いだしたのかもしれない。
式内社の立地状況には、祀られている神様の性質も関わっていたということだ。「危険性の高いところにある神社には、それ相応の理由がある」のだ。それもまた、人々が災害から身を守ろうとした防災意識の結果だろう。
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取材講座データ | ||
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「歴史文化都市の防災と建築史学」 | 立命館大学土曜講座 第3194回 |
文/植月ひろみ 写真/青柳憲昌