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漱石が先取りした「現実に対して部外者」な生き方

相良先生

松山市内を走る坊ちゃん列車

夏目漱石の生誕150年という今年、鶴見大学生涯学習センターでは文学部名誉教授の相良英明先生による「『彼岸過迄』を読む」が開かれている。この作品は「後期三部作」の第一作目。その魅力を探る10回連続講座の第1回をレポートする。

ちょっと安易なタイトルの由来

明治維新直前の1867(慶応3)年、漱石は江戸牛込馬場下横町(現在の新宿区喜久井町)に生まれた。作家としての活動期間はわずか12年と意外と短いが、その間に数々の名作を残している。『吾輩は猫である』『坊っちやん』『草枕』『三四郎』『こころ』…………。

今回の講義で取り上げられたのは、それらの名作にくらべるとあまり知られていない『彼岸過迄』(ひがんすぎまで)。

この作品は漱石が46歳のとき、1912(明治45)年1月1日から4月29日まで「東京朝日新聞(現朝日新聞)」に連載された後に刊行されたものだ。

夏目漱石(国立国会図書館website)

元日から始めて、彼岸過まで書く予定だから単にそう名づけた」(作品本文より)という、ちょっと安易な(?)書名ながらも、後期三部作の第一作目に位置づけられる本作は、その後に続く『行人』『こころ』を読み解く上でも重要だ。相良先生の講義も、初期作品のようなドラマチックさや、おかしさはないものの、じっくり漱石の狙いに踏み込んでいく。

『彼岸過迄』は短いエピソード(短編小説)を積み重ねることで長編小説を創作しようと試みられている。メインとなるのは、「風呂の後」「停留所」「報告」「雨の降る日」「須永の話」「松本の話」という6編。そこに、まえがきに相当する「『彼岸過迄』について」と、最後に「結末」が加わる。

読み解くには、重要な2つのポイントがあると相良先生は語る。

どちらが真の主人公なのか

短編を連ねているこの作品には複数の主人公が登場する。全体を通してみると、大学卒業後も仕事に就かずにプラプラしている田川敬太郎という人物が語り手となっており、一見すると、敬太郎が本作全体の主人公のようだ。

だが、実はもうひとり、敬太郎の友人である須永市蔵という人物も大きく取り上げられている。全316ページ(岩波文庫版)中、3分の1以上が須永の物語で占められている。こうなってくると、『彼岸過迄』という作品は敬太郎の人間探訪記なのか、須永市蔵の物語なのかわからなくなる。

鶴見大学文学部名誉教授・相良先生

「どちらが真の主人公か?という問題は、実は後期三部作に共通したものです」と相良先生は明かす。

なぜあえて、読者を煙に巻くような複雑な構造にするのだろう?

相良先生いわく、「複数の主人公を置くことで真実を相対化し、読者に複眼的な思考を促しているんです」

「自分の人生を生きているか?」と漱石は問う

もう一つのポイントは、語り手の敬太郎がモラトリアムを過ごしており、実社会から離れた存在である点だという。

「便所から帰って夜具の中に潜り込む時、まあ当分休養する事にするんだ」(作品本文より)などとつぶやき、気の向くままに歌舞伎を見に行ったり、文芸評論めいたことをしている。なるほど、敬太郎はいわゆる「高等遊民」そのものだ。

「経済的には恵まれていて、自分で稼ぎを得る必要のない敬太郎は、生活者の視点を持たず、何に対しても観察者に過ぎない。つまり、自分のドラマをつくっていない。自分の人生を生きていないわけです」と相良先生。

これは敬太郎だけの特質だろうか? 「現実に対して部外者のような姿勢は、きわめて現代的」だと相良先生は指摘する。

あふれんばかりの情報に囲まれて、何でも疑似体験できてしまう今日、多くの人が自分で体験することなく、「プチ評論家」になりがちな世相を先取りしていたと言えるかもしれない。

〔講師の今日イチ〕読み返すほどに新しい発見があるのが漱石作品の魅力
〔大学のココイチ〕会場の「鶴見大学会館」は、JR京浜東北線鶴見駅西口から徒歩1分とアクセスもいい

 

取材講座データ
「『彼岸過迄』を読む」 鶴見大学生涯学習センター 2017年春期

2017年4月14日取材

文/小島和子 写真/小島和子(講義風景)、国立国会図書館website、小学館SVD