7万点の国宝が東京ドーム140個分の敷地に
醍醐寺は、貞観16年(874)に理源大師・聖宝によって開創された。
「桜で有名な醍醐寺なので、“874=はなよ(花よ)”と覚えていただくといいですね」
そう語るのは、醍醐寺の執行・総務部長を務める仲田順英師。立命館土曜講座の第3200回「お寺巡りをしたくなる祈りの心」では、醍醐寺の歴史をひもときつつ、京都の「観光」について興味深い話が語られた。
洛南(京都市の南部)の醍醐寺は真言宗醍醐派総本山。標高約450mの醍醐山一帯を境内地とし、山頂付近の「上醍醐」と山麓に広がる「下醍醐」の2つのエリアに分かれる。総面積約200万坪は、東京ドーム140個分に相当する。
とにかく広大な境内で、そのなかには京都府で最も古い木造建築物である五重塔(951年完成)など、国宝の建物だけで6棟があり、「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録されている。国宝は75,522点に及び、重要文化財は425点、そのほかの未指定のものを含めると寺宝は10万点以上にもなる。なぜ、これほどの文物が醍醐寺には伝えられているのか。
太閤の花見、実は身内だけのもの
醍醐寺は豊臣秀吉が有名な「醍醐の花見」を催した寺である。この花見は秀吉が亡くなる半年前に催されたこともあり、晩年に行われた乱痴気騒ぎのように描かれることもある。しかし実際には、NHK大河ドラマ「真田丸」に描かれたように、秀吉の身内だけ(といっても女房衆などを入れて1,300名もの大人数!)のお花見だったのだという。怖いイメージのある秀吉だが、実は家族や身内想いの心優しい一面があったと仲田師は語る。
秀吉がなぜ醍醐寺で花見を行ったのかといえば、拠点である伏見から近かったこと、醍醐が桜の名所であったこと、そして、下醍醐にある三宝院の門跡(皇家・公家が住職を務める寺院、あるいはその住職のこと)を、秀吉とゆかり深い二条家が務めていたことなどが挙げられる。
秀吉による花見が余りにも有名であるが、じつは秀吉以前から醍醐寺に対する武将の崇敬は篤く、足利尊氏や室町幕府の歴代将軍も参詣した。また織田信長からの勝利祈願の書状なども伝わっているという。
公家そして武将と、常に時の権力者に近いところに醍醐寺はあった。だからこそ秀吉の花見も催され、また、江戸幕府から手厚く保護された。
「観光」とは光を観ること。本物の「観光寺院」を目指して
醍醐寺が時の権力と近かったことは、当時の重要な文書類であったり、貴重な宝物が伝わっていることから分かる。醍醐寺には、“本物”が伝えられている。
「観光とは“光を観る”と書きます」
“光を観る”とは、「本物に触れること」「心を見つめること」だという。今、お寺に遺る文物の数々は、祈りの心によってお寺に修められ、祈りの心によって今に伝えられてきたものである。
“本物の文物”に加え、それを守り伝えてきた“祈りの心”にも触れられる。これこそ京都のお寺が観光で果たす役割なのだと仲田師は語る。
「醍醐寺は“本物の観光寺院”になりたいと思っています」と仲田師。
ともすれば悪い意味で使われることも多い“観光寺院”という言葉をあえて使い、“本物の観光寺院”と表現する。この矜持と“本物の心”が、京都の観光資源の源なのである。
〔もっと醍醐寺を知るなら〕
約2400文字で分かる仏教の基本 醍醐寺の講座より
取材講座:「お寺巡りをしたくなる祈りの心」(立命館大学土曜講座 第3200回)
文/植月ひろみ 写真/植月ひろみ(講座風景)、醍醐寺(桜)