まなナビ

服役のちエッセイスト

信濃川一平さん(76歳)/新潟県/最近ハマっていること:社交ダンス

 人の人生は振り返ると面白い。私は勉強嫌いで成績も良くなかった。高校の進学は希望校と言うより入学可能な学校を選び卒業した。ここからが面白い。その後看護専門学校に入学した。当時でも男性看護師はマイナーな職業だった。在学中に医療刑務所を見学させてもらった。案内した医師は、「矯正施設では男性看護師は貴重だ」と誘ってくれた。クラスの大半が女性で病院の看護師となった。卒業後医療刑務所に就職した。男性受刑者と厳つい刑務官の中で技官として働いた。塀の中は「娑婆」とは異なった暗い雰囲気が漂っていた。幸い職場の上司が理解してくれ夜間大学への通学を認めてくれた。通学を理由に「娑婆」の空気に触れ大学での友達に会えるのはストレス解消でもあった。しかし、二十三歳の若さでは社会的に未熟で受刑者相手の仕事は「服役」と同様で楽ではなかった。二年半経過してチャンスが到来した。知人の紹介で東京都庁( 当時は丸の内にあった) から誘いが入った。割愛人事という公務員間の人事異動によって国家公務員から東京都の公務員になった。白衣からスーツとネクタイ姿になり精神衛生行政を担当した。大学では社会福祉を学び卒業も出来た。看護職だが臨床経験が少ないので精神障害者のリハビリテーション施設への異動希望を出した。精神障害者の社会復帰支援は容易でない。毎週定例の症例検討会議がある。担当ケースの支援計画の評価と鋭い指摘がなされた。精神障害者の個性や能力、希望を尊重した柔軟な対応を求められ行政事務とは異なった仕事になった。七年後精神保健センターの相談係長で異動した。アルコール依存症の家族や統合失調症の本人や家族会の人達と会う毎日が続いた。同時に保健師が地域で抱えている困難事例の症例検討会に参加した。保健所保健師と一緒に対応策を検討したが私の役割は助言者だった。研修会講師や大学の非常勤講師の依頼もあり私を成長させてくれた。

 定年を前にした五十七歳の時、地方都市にある国立大学から「看護系短大が大学に移行する。経験を教育に生かして欲しい」と誘われた。妻は私の能力から無理と判断し反対した。しかし准教授として迎えられた。教壇に立つ一方で、大学院の法学研究科で学び修士の学位が取れた。妻も私の後を追って大学院に入った。私は六十歳を超え教授になれたが、授業の準備や学内運営で多忙となったので学術学会や論文書きに専念した。一方、妻は博士後期課程に進学した。私も悔しく思ったので医歯学総合研究科に再入学した。年間の授業料が四十万円程と記憶している。必要単位を取得しながら論文を書いた。五年間籍を置いたが博士論文は不合格だった。六十五歳が定年で退官した。私立大学に二年半勤務したが、家族との時間を大切にするため七十歳を前に退職した。

 高校卒業後を振り返って見た。看護専門学校二年間、更に進学して二年、大学に四年、大学院博士前期課程二年、後期課程五年間学校で学んでいた。よくも長いこと学び続けたものである。

 年金暮らしそして喜寿を迎えた。健康に恵まれ今は三本柱で暮らしている。① 家庭菜園で大根やナスなどの野菜作り、② 社交ダンスサークルでのレッスンに参加。八年目に入ったのでタンゴもチャチャチャも踊れる。③ 自称エッセイストとなり五月に八冊目のエッセイ集を自費出版した。新潟市では文芸作品の公募がある。小説、随筆、コント部門に応募して市長賞をもらったこともある。

 小学校でも中学校でも作文を褒められた記憶がない。遅咲き人もいる。運命が助けてくれることもある。何事も学び続けていれば成長する。

 

(作文の一部に編集室が文字の修正などをしています)