李朝白磁の美を日本に伝えた兄弟
日本ではほとんど知られていないが、日本以外では著名な日本人がいる。浅川伯教・巧兄弟もそうだ。明治大学名誉教授・林雅彦先生は語る。
「浅川伯教・巧兄弟には30年くらい前から強い関心を抱いてきました。ことに弟の巧には、研究対象という存在を超えて、その生き方に強く惹かれます。以前、研究で韓国に1年間滞在したときも、その足跡をたどったものです。李朝白磁の美を日本に伝え、“朝鮮古陶磁の神様”と称された兄の伯教とともに、朝鮮の国土と文化に人生のすべてを捧げ、短い40年の生涯を全力で駆け抜け、最後は朝鮮の土となりました。彼の地で最も愛された日本人の一人でした。
先に朝鮮に渡ったのは兄の伯教でした。日韓併合から3年後の1913年(大正2年)のことです。朝鮮の陶磁器に強い興味を持っていた兄に続き、営林署に勤める技手であった弟の浅川巧も、翌年に朝鮮に渡り、朝鮮総督府山林課の林業試験場に就職します。そして二人は“李朝白磁”に出会うのです」(林先生)
柳宗悦に渡した李朝白磁の小さな壺
こんにち韓国の首都ソウルを訪れた日本人の多くが訪れる仁寺洞(インサドン)。陶磁器や刺繍など、多くの工芸品店が軒を連ねるこの有名な観光地で、とくに目を引くのが白磁の店だ。柔らかい白色の光を内から放つようなその色味に、私たちは洗練された美を感じるが、白磁にそうした評価を与えたのは、浅川伯教・巧兄弟だった。
浅川兄弟が朝鮮に渡った100年前、当地で珍重されていたのは高麗青磁で、李朝白磁は骨董店でも高い評価は与えられていなかった。しかし、浅川兄弟はほとんど顧みられていなかった李朝白磁の美しさに魅せられた。そこで、浅川伯教は、当時、雑誌『白樺』で活躍していた柳宗悦(やなぎむねよし・民藝運動を起こした思想家)に、ひとつの壺を渡す。
それは李朝白磁の小さな壺で、のちに「面取染付秋草文壺(めんとりそめつけあきくさもんつぼ)」と名付けられる。これをきっかけに、浅川兄弟と柳宗悦との交流が始まる。そして1924年(大正13)、柳宗悦と浅川兄弟は、日本統治下の京城(今のソウル)に、朝鮮民族美術館を設立し、朝鮮文化の保存・継承の拠点とする。
その浅川巧がもっとも尽力したのは、朝鮮の国土の緑化だった。
韓服を着て朝鮮語を話し、はげ山を緑の大地に
現在、韓国は緑豊かな国という印象を持つ人は多いだろう。しかし100年前は乱伐により、はげ山だらけだったという。浅川巧は朝鮮総督府山林課に勤める技手として、山林の再生に尽力した。
どんな樹種が適合するのか、日本からさまざまな種子や苗木を持ちこんでは植林実験を繰り返すが、なかなか成功しない。最後にたどり着いたのは、その土地の種なり苗なりを植えなければならない、ということ。そして、露天埋蔵発芽促進法を開発し、人工的な発芽は困難と思われていたチョウセンゴヨウマツの発芽に成功する。
本講座の受講生の手元には、林先生による手作りの詳細な年譜が配布された。そこに記された彼の事績を眺めるだけで、植林活動にかける巧の情熱が垣間見える。
朝鮮の文物や自然を深く愛する巧は、職場にもチョゴリなどの韓服(かんふく)を着て通い、朝鮮語を話し、現地に溶け込んで暮らした。給料をもらうと、最低限の必要な額だけとって、あとは現地の貧しい人々に寄付したという。
そんな彼だけに朝鮮総督府の政策には怒りを感じることも多かった。林先生は、彼の日記にはさまざまな葛藤が見てとれるという。1922年、朝鮮神宮を建設するために城壁が破壊された時には、日本の神社を作るなどということをやるより、破壊をやめよ、朝鮮人の心を大事にしなければならないと書いている。また、1923年の関東大震災に際して朝鮮人虐殺が報じられた時は、これを厳しく批判している。
1931年4月2日、浅川巧は風邪をこじらせて40歳の短い生涯を終えた。葬式には数多くの朝鮮の人々が参列し、棺を担いで運び、悼む歌をうたいながら共同墓地に収めたという。日本が戦争に負けたとき、人々はその墓が暴かれないように隠して守った。死後35年経った1966年、忘憂里(マンウリ)共同墓地(1942年、里門里より改葬)に、「浅川巧功徳之墓」の碑が建立された。
何事も知ることから始まる。こういう生き方をした日本人がいて、あの時代にそうした日韓の交流があったことを知るだけでも何かが変わる気がする。
◆取材講座:「なぜ人は旅に出るのか その14」第1回「浅川伯教・巧兄弟と朝鮮半島」(明治大学リバティアカデミー2017年春講座)
文/まなナビ編集室 写真/浅川伯教・巧兄弟資料館(山梨県北杜市)