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元『海燕』編集長が紐解く小川洋子のフェティシズム

Hands writing on old typewriter

元『海燕』編集長が紐解く小川洋子のフェティシズム

「小説を書いてみたい」と考えたことがある人は少なくない。そんな人々のために開講されている小説講座をのぞいてみた。吉本ばなな氏や角田光代氏ほか、今をときめく小説家を数多く世に送り出してきたカリスマ編集者の指導とは……。

なぜ「糜爛」という言葉を選んだか

この「小説教室入門(基礎編)」(早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校)を指導するのは、文芸誌『海燕』や小説誌『野性時代』の編集長を歴任し、多くの小説家を育成してきた根本昌夫先生。講座では、あらかじめ読んでくるように決められた小説の合評の後、根本先生が編集者の視点で分析していく。

取材した日の授業で取り上げられたのは、小川洋子氏の『バタフライ和文タイプ事務所』。小川洋子氏も『海燕』でデビューした作家の一人だ。

この小説は、和文タイプの事務所に入った新米のタイピストと活字管理人の交流を描いた作品だ。活字が壊れてしまうたび、活字管理人を訪れて、活字を直してもらう。だが、その活字は「糜爛(びらん)」の「糜」や、「睾丸」の「睾」など、淫靡なものばかりで、どことなくエロティックな描写が続く。

教室の受講生たちを順に根本先生が指名していくなか、同作に対する生徒たちの感想としては、

「タイプを打つ女性の手のエロティックな描写が素晴らしかった」
「無機質で淫靡。こういう文章世界があるんだと面白かった」

と、好意的意見が多い一方で、

「なぜ『糜爛』などという単語を選んだのか理解できない。もっと爽やかな単語でもよかったのではないか」
「同じビルの1階と3階という離れた場所で働いているのに、なぜタイピストと活字管理人が仲良くなったのかの経緯などが不明だった。リアリティがあまりないように感じる」
「自分自身がかつて使っていた和文タイプの時代を思い出したが、その時代のものというよりは、むしろ現代を舞台にしたストーリーなのではないか」

と、作品に対する疑問点もあげられていた。

小川洋子作品に通底するものとは……

こうした受講生の疑問に対して、根本先生は解説する。

「小川洋子さんは、私が編集長を務めていた『海燕』の新人賞を受賞し、作家デビューされた作家さんなのですが、デビュー以来の彼女の作品を見ていくと、ある共通点があることがわかります。

異形や奇矯なものへの偏愛

たとえば、1988年に発表して海燕新人賞を受賞した『揚羽蝶が壊れる時』。これは、認知症の祖母と精神を病んでいく母を、娘の視点で描いたストーリーです。続く1989年の『完璧な病室』は死の床にある弟の担当医に恋をする姉の話です。1990年の『冷めない紅茶』は友達のお通夜で再会した男の子・K君と主人公の話。彼が入れてくれた紅茶はいつも冷めない。そのことから、彼はこちら側の世界の人間ではないことに気がつく……というストーリーです」(根本先生、以下「」内同)

また、芥川賞も受賞した『妊娠カレンダー』(1991年)では、妊娠した姉の様子を、嫌悪をもって見守る妹の姿を描いている。さらに、『ドミトリイ』は、行方不明になってしまったいとこが、実は義足の幼女を迎えていることを知った女性の物語。続く『シュガータイム』は、過食症の女性の日記が綴られる。『余白の愛』は、かつて難聴だった女性が「難聴をいかにして克服したか」を語る座談会に参加して出会った速記者の男性との交流を描いた作品だ。

「小川さんの歴代作品を見ていくと、どれも共通するものがある。それは、異形や奇矯なものへの偏愛やフェティシズムです。

小川洋子さんの代表作といえば、2003年に発表された『博士の愛した数式』をイメージする人も多いですが、あれは従来の小川さんの作品にハートウォーミングな要素をプラスして、よりソフトな世界観に昇華させたもの。だからこそ、従来の小川さんの作品よりも、より多くの人に受け入れられたのでしょう。ただ、あの『博士の愛した数式』に関しても、博士の持っている記憶障害や数字へのフェティシズムなどが相変わらず登場しています。

小川さんの作品は、すべて自分が言葉で作った世界であって、独特なもの。リアリズムを求めて読むというよりは、小川さん自身が作った世界観に浸りながら読むほうが、楽しめるのではないでしょうか」

受講者の私小説へのアドバイスも

授業内では、受講生たちがほかの受講生が執筆した小説を読み、品評するという場面も。小説の提出の有無や形式、テーマ等はすべて生徒の裁量に任せられているという。

原稿用紙1枚ほどの短編から、100枚近い大作を持ってくる人など、分量は人それぞれで、テーマも私小説風のものから歴史小説まで幅広かった。こちらも、受講生が一人ずつ原稿について品評した後、根本先生が最後に感想やアドバイスを丁寧に伝えていく。

当日、講義に参加していた70代女性は「授業に参加する人は、趣味として文章を書きたいという人から、本格的に新人賞を狙っている人までさまざま。ただ、どちらにせよ、プロの編集者である根本先生から、自分の書いた小説についての講評がもらえるのは非常に貴重な経験です」と語っていた。

〔受講者の今日イチ〕 一流編集者から自作小説へのアドバイスが受けられるのは貴重な体験」との声。

〔おすすめ講座〕小説教室入門(基礎編)」「小説教室入門(応用・総合編)

取材講座データ
小説教室入門(基礎編) 早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校 2016年度秋期

2016年12月3日取材

文/藤村はるな 写真/Adobe Stock