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人が生きづらい理由は〇〇されないから 哲学に学ぶアナ雪「ありのままで」幻想

早稲田大学教授、那須政玄先生

2014年に大ヒットしたディズニーのアニメ映画『アナと雪の女王』。自分の持つ能力に苦しみ、「ありのままの自分」を受け入れるために葛藤する少女の話で、他人との関係に疲れて「ありのまま」を求める多くの人に感銘を与えた。しかし哲学的に見れば、これは幻想で、「等身大の自分」などありえないという。

『アナ雪』の大前提が哲学で崩壊?

みんな「自分探し」が大好きだ。「今の私じゃない、ほんとうの私がいるはず」――。『アナと雪の女王』の大ヒットの陰にはそのような心理があった。

しかし早稲田大学エクステンションセンター中野校で開催の講座「哲学―常識批判の基盤を形成するために」の講師・那須政玄早稲田大学教授によれば、「ありのままの自分」「等身大の自分」など幻想だ、という。それを説明するのに、那須先生は動物の生態から説明を始めた。

那須先生は、現代人は人間を動物の中の一種類と認識しているが、西洋では長く「人間は特別な生き物だ」と考えていたと語る。

聖書に『神は人を自分の形に似せて作った』とあります。しかし動物は人の姿はしていない。だから西洋では動物と人間は違うと考えています。ヒエラルキーの一番上に神がいて、一番下に動物がいます。人間はその中間にいて、理性と衝動を両方持っている。アリストテレスも『人間は理性的動物である』と言っています


←理性
人間
←衝動(本能)
動物(自然)

19世紀から20世紀初めに、数学、物理学、心理学でそれまでの根本を覆すような大変革が起きたことは前の記事「数学や物理学べば発達障害への偏見の愚が分かる」で触れた。生物学でも、ドイツの生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュル(1864~1944)が登場した。那須先生はユクスキュルの著書『生物から見た世界』を参参考に、彼の提唱する論を紹介していく。

「例えば、花々が咲き乱れる草原があったとします。人間には色とりどりの花畑に見えます。しかし蜂にとっては、○、☆、×しかそこに存在しないのです。×と☆は咲いている花。○はつぼみです。蜂にとって重要なのは蜜を取ることだけなので、その他の情報には関心がないのです

このような例を、彼はいろいろな生物から見いだしました。こうした生物それぞれの固有な世界をユクスキュルは『環境世界』と呼びました。人間は、蜂が何マイルも先にある蜜までたどり着くことに対して『すごい能力だ』と思いますが、そもそも蜂にとってはそれ以外のことは興味がないのです、むしろ見えないのです」

見るものによって世界はまったく異なって見えるという。肉食動物なら餌になる動物以外のもの、たとえば花は目に入らない。では人間はなぜこれほどたくさんのものを認識できるのだろうか

ヤドカリにとってイソギンチャクは宿で餌で道具

それは人間が生活に直接関係ないことにまで興味を持つからです。霊長類の研究者の間ではよく知られていることですが、霊長類は1~2歳まではめちゃくちゃ遊びます。ボールを与えればそれを使ってあらゆることをする。しかし3年くらい経つと遊ばなくなります。けれども人間は死ぬまで遊び続ける。子どもの性質を持ったまま大人になることを『ネオテニー』と言いますが、70、80歳になろうが人間は赤ちゃんなんですね

確かに、好奇心旺盛な人の方が若々しいと聞いたことがある。それは生活以外の興味を持つことが子どもの証拠だからということか。

ユスクキュルによると、人間が見えている世界と同じものを動物が見ているわけではないという。そしてその世界は、同じ動物でも、状態によって見方が変わるというのだ。

「例えば、ヤドカリの前にイソギンチャクがいたとします。ヤドカリが宿となる貝に入っているときは、イソギンチャクを絶好のカモフラージュの道具として考え、貝に付けようとします。ヤドカリに宿がないときは、イソギンチャクを宿にしようとします。もしヤドカリが空腹なら、イソギンチャクを餌だと思い食べようとする。宿もあり、カモフラージュする必要もなく、お腹も空いていない場合は、ヤドカリはイソギンチャクに見向きもしません。認識しないのです。イソギンチャクは、カモフラージュの道具にされたり、宿にされたり、餌と認識されたり、そもそも認識もされなかったりする。つまり主体となる動物の状態によって、ものの見え方や捉え方が変わってくるんです

人間は、つい自分を基準にものごとを考える。目の前にあるものは、ほかの人も同じように認識していると思いこんでいる。しかし、ひとりひとりまったく捉え方は違うし、感じ方も、価値も違う。しかも状況──たとえば満腹なのか空腹なのか、満たされているのかいないのかなど──によっても見え方が異なる。絶対的なものなどありえない。

絶対的なものなどありえない

よく『自分探し』とか『等身大の自分』などと言う人がいます。同じように、早稲田大学の教授としての那須政玄は、本当の那須政玄じゃないだろうという人がいます。確かにそうです。私は妻と一緒にいれば『夫としての那須政玄』、子どもといれば『父親としての那須政玄』です。しかしぜんぶ『〇〇としての那須正弦』です。相手との関係によって、私という像は変わります。

人が生きづらい理由は〇〇されないから

どこかに『ハダカの自分』がいると考えている人がいますが、そんなものはありません。あるのは、すべて『誰かとの関係の中の自分』なのです。

ありのままの自分がいる、等身大の自分、ハダカの自分がどこかにいると考えるのは、不幸の始まりです。探したとしても決して見つかりません。ユクスキュルの言っていることは生物学でありながら、自分のこととして考えられる哲学なのです

ありのままの自分でいることに憧れる人は少なくなさそうだ。だがそれは幻想だという。結局は、自分の存在というのは、誰かとの関係の中で成り立つからだ。

人が生きづらいのは、ありのままでいられなかったからではなく、他人から認められないから。『アナと雪の女王』でも、エルサが生きにくかったのは、認めてもらえなかったからだ(しかも自分の両親に!)。結局、大団円を迎えた後も、彼女を否定する人間が現れたら、また辛くなることには変わりがない。

誰もが他人を尊重できたら、自分を否定されることもなく、生きづらさも軽減されるだろう。となると、自分にできることは「ハダカの自分」になることではなくて、他人を尊重することに尽きそうだ。

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◆取材講座:「哲学 ― 常識批判の基盤を形成するために ― 」(早稲田大学エクステンションセンター中野校)

文/和久井香菜子 写真/和久井香菜子(講座写真)、SVD、(c)Saruri、(c)Robert Kneschke、(c)Africa Studio / fotolia