まなナビ

串刺し公ヴラドはこうしてドラキュラになった!

吸血鬼ドラキュラにはモデルがいた。15世紀のヨーロッパで“串刺し公”といわれたヴラド公だ。しかし彼は、オスマン帝国を相手に戦いを挑んだ勇敢な君主としても知られている。明治大学リバティアカデミー(公開講座)で、文学部アジア史専攻教員が担当する明大アジア史講座では、今期は『アジア史悪人列伝』と題し、第6回目、江川ひかり先生の講義では、なぜ彼が「ドラキュラになった」かが語られた。

オスマン帝国に抵抗した心理戦の名手

オスマン帝国は14世紀から600年以上もの長きにわたって、中東を中心に北アフリカから東ヨーロッパにまで栄えた国だ。この強大な帝国に15世紀、戦いを挑んだワラキア公国(現在のルーマニア)の君主が、ドラキュラのモデルとなったヴラド公だ。ヴラドが生まれたとき、ワラキア公国はすでにオスマン帝国の支配下にあった。父が公位に就いていた間の5年間、ヴラドは現在のトルコで人質生活を強いられたが、その間、父と兄は暗殺された。その結果、帰国後、ヴラドは猜疑心が強くなり「父と兄の暗殺に関与した人を殺害したり、敵対する住民を串刺しにしてさらしたとも言われ、その様子は版画として残されています。」(江川ひかり先生、以下同)

このような所行から、ヴラド公は当時から「ヴラド・ツェペシュ(串刺し公)・ドラクル」と呼ばれていた。

「ドラクル」には「竜」と「悪魔」の2つの意味がある。

特に30歳のころ、オスマン軍に奇襲をしかけて大勝したときは、敵が行軍してくる場所にオスマン軍の捕虜を串刺しにして並べて戦意をそぐという巧みな心理戦を行ったとされている。「ヴラド・串刺し公」はオスマン帝国にとってもあなどれない、恐怖に満ちた敵となった。こうして彼は「悪人」として歴史に名を残すことになった。

ドラキュラ城のモデルとされるルーマニアのブラン城

映画からも伝わる串刺し公のおどろおどろしさ

ルーマニアで語り継がれてきた伝説のひとつに、夜に乙女が眠っている部屋に入り込み、夢の中で悪行を働く悪魔の話がある。その悪魔の話とヴラド公の串刺しのエピソードを合体させて、19世紀にアイルランドの作家ブラム・ストーカーが生み出した小説が『吸血鬼ドラキュラ』だ。以来、オスマン帝国をおびやかしたヴラド公は、何百年たった今でも記憶に残る存在となった。

「19世紀末は、西ヨーロッパで怪奇ものが流行した時代でした。人間の生き血を吸う怪物が、東ヨーロッパからイギリスにやってくるというストーカーの小説は、その時代の流行にのって大衆に受け入れられたのです」

20世紀になるとドラキュラをモチーフにした映画が何本も作られ、いまなお「人気」の怪物として、小説や映画に登場している。

江川先生はここまで話を終えると、1958年公開の映画『吸血鬼ドラキュラ』のドラキュラの登場シーンを10分ほど上映。クラッシックな映像からは、オスマン帝国の兵士たちが串刺し公ヴラドに対して感じた恐怖はいかばかりだったかと思わせる、おどろおどろしさが伝わってきた。

最後の30分間は受講者から質問が活発に飛び、講座は終了した。受講者は13人。平日の夕方ということもあり60歳以上が8割方を占めていた。コアなテーマだからだろう、歴史に興味がある人たちが集まっていた。

『アジア史悪人列伝』の最終回だったため、講座の後はこれまで登壇された先生方も集まって、教室がある明治大学アカデミーコモンの1階のカフェで受講者とのお茶会が開かれた。6回かけて学んだ知識をさらに深める会になったことだろう。

〔講師の今日イチ〕「本一冊だけ読んでレポートを書いてもダメ!」 江川先生は講座の中で何度も、「どちらの側から見るかで、悪と善かが決まる」と繰り返した。歴史はその時代により、また立場により見方が変わる。「たくさんの本を読めば読むほど、多様な見方を学ぶことができます。そこから自分はどう考えるのかが大切です」

〔おすすめ講座〕「学びなおすオスマン帝国の歴史」

取材講座データ
アジア史悪人列伝 明大アジア史講座No.24 明治大学リバティアカデミー 2016年秋期

2016年11月29日取材

文/まなナビ編集室 写真/Adobe Stock