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ギターの詩人、大萩康司「僕はこうして音楽家になった」

講座終了後、東邦音楽大学・学校法人三室戸学園創立50周年記念館ホールのロビーでインタビューに応じる大萩康司氏

ギターから奏でられる音はまるで万華鏡のように変容しきらめいて耳に飛び込んでくる。抜群のテクニックと深い表現力で国内外の聴衆を魅了するクラシック・ギター奏者、大萩康司(おおはぎ・やすじ)氏の演奏を、こんなに間近で見られるとは。場所は東邦大学エクステンションセンターの講座。タイトルは「一人のギタリストができるまで」。大萩氏が音楽家として活動するまでの軌跡を、思い出の曲を演奏しながら語る講座だ。そこで語られた人生とは……。

「一人のギタリストができるまで」を

大萩氏はいま、世界で最も注目されているクラシックギター奏者の1人だ。高校卒業後、パリのコンセルヴァトワール(パリ国立高等音楽院)に首席で入学。ハバナ国際ギターコンクール第2位、第6回ホテルオークラ賞、第18回出光音楽賞などを受賞し、世界中で活躍している。その卓越した技術と表現力は「ギターの詩人」と評されるほどだ。

しかし幼少時から英才教育を受けたかというと、けっしてそうではない。ギターを始めたのは8才、留学を志したのは高校2年の時と非常に遅かった。だからこそこれから演奏家を目指す人に向けて、自分がどういうふうにしてプロの音楽家になったのかを伝えたいと、「一人のギタリストができるまで」と題した一日だけの講座を東邦音楽大学で開講することとなった。

講座は、大萩氏が主に幼い頃から留学までを中心に語りながら、思い出の楽曲を演奏する形で進められた。それは新しいかたちのリサイタルともいえる。

以下に、当日の模様を再現しながら、講座後のインタビューも交えて構成した。演奏された楽曲のうち、『羽衣伝説~山入端博の旋律に基づく』については、大萩氏による2004年ワシントン・ケネディセンターでのリサイタルが全世界にネット配信されており、そのyoutube動画を以下に添付した。渾身の演奏を聴きながらお読みいただければ幸いである。

8歳で母の持っていたギターに興味を持ち……

「僕は宮崎で生まれました。家族や親戚に音楽家は一人もいませんし、兄はCG制作の仕事をしています。幼い頃、家にあった唯一の楽器はギターでした。母が趣味でギターを弾いていたんです。好奇心から時々ギターの弦を弾いてみたりしているうちに、楽器っていろいろな音が出るものなんだな、なんて思っていました。おもちゃとして見ていたんですね。

小学校の頃はピアノの音がとても好きでした。どれくらい好きだったかというと、近所に住んでいた同級生の子がピアノを弾いていたので、その家の壁に耳をつけて、じっと聴き入っていたくらいです。でも買ってもらえそうもないよなあ……と壁越しに聴くだけでした。今でもピアノの音は大好きです。

当時、僕は喘息だったので、野球やサッカーがやりたくてもできなかったんです。短距離は走れても1500メートル走ると喘息の発作が出てしまう。サッカーやってる友達はモテていいなあと思いながら、家の中で折り紙とかをしている少年でした。

けれど遊びたい盛りの小学生ですから、何か始めたくて、母のやっていたクラシックギターをやってみようと思ったんですね。8歳くらいの時でした。ドレミファソラシドを教えてもらったら面白くて面白くて。初めて弾けた曲が『チューリップ』でした」

小学4年生の発表会で弾いたのが「アルハンブラの思い出」

「ギターのような弦楽器は、同じ音がさまざまなポジションで出せるんですが、それが楽しくて子供の頃は“音符集め”みたいなことをしながらギターを楽しんでいました。小4になった頃に弾けるようになった曲が、フェルナンド・ソルの『ワルツ』でした(『ワルツ』を演奏)。

その頃、家庭内のコミュニケーションがうまくいっておらず、自分自身も反抗期を迎えていたので世の中のいろいろなことがいやになっていたんですね。そういうことから逃れようとギターに没頭していました。自分の気持ちを吐き出せる場所がギターだったんです。今振り返ると、ギターに喜怒哀楽すべてをぶつけていたと思います。

とにかく周りにある音という音をギターで再現してみたかった。学校の音楽室にある楽譜を、ピアノだろうが何だろうがギターで弾いてみました。そういうことをしているうちに、だんだん音符というものに慣れてきたんです。

その頃、僕は合奏のグループに入っていました。でも、いろいろな音を試してみたくて、ついつい余計なことをしちゃうんです。たとえば『ミュンヘン・ポルカ』という曲があるんですが、そのままだと単純なのでセカンドを合わせて弾いてしまう。それが先生にバレて、先生が『合奏にならんから、君はソロをやりなさい』と言ってくれてソロを弾くようになりました。習い始めて2年経った小4の発表会の時には、『アルハンブラの思い出』が弾けるようになりました。(『アルハンブラの思い出』を演奏)

この時初めて、第三者から感想をもらったんです。それが校内でも“ワル”で知られていたK君でした。彼はみんなからはちょっと怖がられていましたが、とてもピュアで、仲がよかった。彼に『アルハンブラの思い出』を聴かせたら、『誰かが後ろで弾いちょったやろ?』と言う。『やった!』と思いましたよ。『興味持ってくれたんだ』と。それならもっと上手く弾いたら、もっと周りの人に喜んでもらえるかも、と子供心に思ったんです。

ちょうどその頃、『夢を語る』という作文を書くことになって、僕はあまり深く考えずに『ギタリストになる』と書いたんです。それを見ても母は何も言いませんでした。でもその頃はまだ、ギタリストになるとはどういうことか、僕にはよくわかっていませんでした」

東邦音楽大学・学校法人三室戸学園創立50周年記念館ホール壇上で半生を語る大萩氏

バンドブームの中で迎えた中学時代

「中学校に入ったとたん、それまでギター教室で一緒に習っていた友達は勉強が忙しくなるからと、次々辞めていきました。残った子も当時大人気だった深夜番組の『イカ天』(TBS系の音楽オーディション番組『三宅裕司のいかすバンド天国』)に影響されて、エレキギターでバンドをやりはじめました。街中にもストリートミュージシャンが増えてきて、こんなたくさんいたら生き残れないよ、と思ってました。ギターと仕事を結びつけてとらえ始めていたのかもしれません。

中学校での思い出の曲が、中学入学直後に弾いたヴィラ・ロボスの『プレリュード1番』と、初めての文化祭で演奏した『さくらの主題による演奏曲』です。これはアルハンブラよりさらに技巧的に難しい曲だったですね。(2曲続けて演奏)

その頃にはだんだん体力もついてきて、部活動でハンドボールを始めました。そのコーチが大きな影響を僕に与えてくれたんです。『やる時はやれ』『人がやりたがらないことを率先してやると何かが得られる』、そう教わりました。それでみんながやりたがらない生徒会長になってみたら、結構大変だけど面白い仕事で、人と一緒に何かをするのは楽しいと思うようになりました。その経験はのちに留学したり海外で演奏活動をしたりしていくなかでとても役立ったと思っています」

高校に入り、初めて留学を意識した

「高校で一番思い出に残っている曲が、高2の文化祭で弾いた、藤井敬吾先生作曲の『羽衣伝説~山入端博の旋律に基づく』です。高1の時、藤井先生が弾いているのを見て、その曲のすばらしさはもちろん、弾き方がすごいので、どうしても弾いてみたくて『楽譜はないんでしょうか』と藤井先生に直接問い合わせました。そうしたら『来年出るよ』と教えていただいたので翌年早速、楽譜を手に入れて高2の文化祭で演奏しました。

これは20分近くかかる大作で、しかも沖縄音階なども出てくるかなり前衛的な曲なので、文化祭で弾いたら、聴いてるみんながポッカーンとなってしまいました。でも、わからないなりに『おまえ、面白いな』となって友達の輪が広がっていきました。(『羽衣伝説~山入端博の旋律に基づく』演奏。冒頭に2004年、ワシントン・ケネディセンターでの動画を添付した)

その頃、進路を決めなければならなくなりました。当時はバスで片道3時間かけて福岡にギターを習いに行っていましたが、僕自身も音楽で食べていくということがどういうことなのか、まだよくわかっていなかったと思います。地元の大学に進んでギター部に入ってやっていこうかな、などと漠然と考えていて、留学なんて頭の片隅にもありませんでした。

でも、転機というのは突然現れるものなんですね。高2の冬、沖縄で、ピアニストの岩崎淑(いわさきしゅく)先生とチェリストの岩崎洸(いわさきこう)先生が主宰する講習会「沖縄ムーンビーチ ミュージック・キャンプ&フェスティバル」が開催され、そのメンバーの1人である著名なクラシックギター奏者の福田進一先生に、『ちょっと習いに来ないか』と誘われたんです。でも親に講習費用を出してもらうのが申しわけなくて、『聴講だけさせてください』と返事をして沖縄に行きました。

その時、受講していたのが、村治佳織さん、鈴木大介さん、松尾俊介さん、金庸太(キム・ヨンテ)さん。まさに今世界のクラシック界で活躍している方たちばかりでした。僕も受講しておけばよかったと、今でも後悔しています。村治さんとは同世代ですが、15歳でデビューしていて当時すでにスーパースターでした。同い年の演奏家があれだけ活躍しているというのは、当時も今も、本当に励みになっています。

1週間くらい滞在して、みんなのレッスンを聴講させてもらって、明日には終わるという日に福田先生に呼ばれました。そこには受講した人たちがいて、福田先生はみんなに『おまえたち、将来どうするんだ?』と訊ねたんです。最初に訊かれた受講生が『大学に入ってギターをやろうと思っています』と答えたら、福田先生は『そんな生半可な気持ちで音楽なんかできないぞ』って言ったんですね。そこで初めて、音楽をするにはそんなに覚悟がいるものなのだと気づきました。次に訊かれた村治さんが、『私は留学しようと思っています』と答えたんです。それで、“留学”という選択肢があることを初めて知りました。

最後に『大萩、おまえはどうするんだ?』と訊ねられました。思わず『留学しようと思ってます』と答えていました。もし最初に訊かれていたら、そんな答えは絶対に出てこなかったと思います。それが僕の人生がガラッと変わった瞬間だったと思います。

パリのコンセルヴァトワール、最初の受験は失敗

初めて自分の進路に“留学”という文字が入ってきました。目指す学校をパリのコンセルヴァトワール(パリ国立高等音楽院)と決め、早速、応募書類を取り寄せました。書類はすべてフランス語。福岡に通うバスの中で必死に辞書で調べて訳し、各時代からそれぞれ出される課題曲の一つは武満徹の『すべては薄明のなかで』だとわかりました。課題曲を練習して、試験に臨むために渡仏したのは、ちょうど高3に進学する直前のことでした。

緊張の中、コンセルヴァトワールの試験官の前で弾き始め、1楽章を終えたら、『2楽章を弾きなさい』と。固まってしまいました。じつはFAXで送られてきた応募書類の1楽章と2楽章の間の言葉がインク切れでかすれていたんです。僕はそれを、“1楽章と3楽章”と勘違いしていたんですが、本当は“1楽章から3楽章”だったんです。2楽章はまったく練習していないから、弾けるわけがない。そのまま落ちてしまいました。

卒業後留学。今も思いは変わらない

高校卒業と同時にパリのエコール・ノルマルに入学しました。そこで名教授といわれていたアルベルト・ポンセ先生の指導を受けることができました。このポンセ先生の授業がすごいんです。最初のレッスンでガチャンと鍵の束を床に落とし、『おまえの音はこれだ!』と言われるんです。要するに僕の音はノイズでしかない、ということ。これは誰にでもする儀式のようなものだったのだと、後で知りました。ギターの音はこうだと教えてくれたポンセ先生の、その最晩年の授業を受けることができたのは、本当に幸せなことだったと思います。そして翌年コンセルヴァトワールに入学しました。

留学には大変なお金がかかります。母が親戚の間を回って援助をお願いしてくれ、父も学費を工面して送ってくれました。多くの人に支えられ、多くの出会いがあって、演奏家としての僕が今ここにいるのです。

楽器との出会いに恵まれて

楽器との出会いについても語っておきたいと思います。どのタイミングでどの楽器と出会うか、それもまた人との出会いと似ています。

留学前に、ローベル・ブーシェというギターの名工に日本人でただ一人師事した松村雅亘さんの楽器を手にすることができました。とても幸運なことだったと思います。そして最初のCDを出す前に、世界にたった154本しかないブーシェのギターを福岡のフォレストヒルというギターショップで入手できました。ブーシェのギターはとても固くて演奏しにくく、鳴るストライクポイントが狭いんですが、ストライクポイントに入ったときの音がじつにすばらしい。このギターが僕を鍛えてくれたと思います。

そして2016年には、100年前のスペインの名工、イグナシオ・フレタのギターを手に入れることができました。あるお店にイグナシオ・フレタが2台あったんですが、最初のはちょっと合わなかったんです。そのことを伝えたら、店の裏から2台目を持ってきてくれたんです。これがものすごく響きがよかった。あとで調べたら、楽器名鑑にも載っている楽器で、本当は売りたくなかったかもしれません。だから大事に使っていきたいと思っています。

今日の講座で使用したギターは、桜井正毅さんというギター製作者の方が福田信一先生からの依頼を受けて制作したマエストロ─RFというギターです。RFとはRaised Fingerboard Modelのことで、ハイポジション(高音部)の指板が普通のギターより高いんです。

当日使用したマエストロ─RF。指板が通常のギターより2~3センチ高い

そのため『アランフェス協奏曲』のようにハイポジションでの動きが多い曲を弾く際に操作性がよく、また高音もよく響きます。僕が使用しているのは2011年のモデルですが、2017年のものはこの9月、第12回日本版イグノーベル賞(芸術部門)を受賞しました。ギターは年を経れば経るほど音がよくなるもの。20年30年後にどんな音になっているだろうかと想像するのも楽しいです。

楽器との出会いに恵まれてこれからも演奏家として

僕は時々、不思議に思うのです。なぜ自分は演奏家として活動できているのだろうと。きっと今語ったような数々の出会いが僕をここまで連れてきてくれたんだと思います。こうして小・中・高の自分を振り返ってみると、僕の中では何も変わっていないのです。少しでもギターを上手に弾けるようになりたいし、そこから得られる喜びは今でもまったく変わらない。完璧だとはまったく思わないし、満足していない。それが僕が演奏家でいられる一番大きな理由だと思います。

でもいくつか悔いもあります。それは、もう少し早くギターを始めていればよかった、ということ。僕が始めたのは8歳くらいの時ですが、これは音楽を始めるにはかなり遅いと思います。もう少し早く初めて入ればもっと上手くなったかもしれないと、今も焦りを感じています。音楽は1歳でも早く始めたほうがよいのです。

始めたのは遅かったけれど、自分の意志で選択し、今に至るまで思いを変わらず持ち続けていられる自分に感謝をしていることも事実です。少しでも上手くなりたい、人の心に届く演奏をしたい。いつまでもその思いで演奏家として活動していきたいと思います」

◆取材講座:「一人のギタリストができるまで」(東邦大学エクステンションセンター)

大萩康司
おおはぎ・やすじ 1978年、宮崎県小林市に生まれる。母の手ほどきでギターを始め、萩原博、中野義久、福田進一に師事。高校卒業と共に渡仏し、パリのエコール・ノルマルに入学。翌年パリ国立高等音楽院に第1位で入学。ハバナ国際ギターコンクール第2位、合わせて審査員特別賞レオ・ブルーウェル賞を受賞。その後4年間キジアーナ音楽院でオスカー・ギリアに師事し、4年連続最終ディプロマを取得。第6回ホテルオークラ賞、第18回出光音楽賞受賞。

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取材・文・写真/まなナビ編集室(土肥元子)