一度だけ仕事で海外に派遣されたことがある。場所はフランス、パリ。はじめての海外にすっかり舞い上がっていた。
少し時間があるからと、ガイドブックで目をつけていた雑貨屋さんを見に行った帰り道、道に迷ってしまった。言葉も通じず看板も読めない。当時は携帯電話も持っていなかった。たぶんこっちからきたはずだと頼った勘は、ことごとく外れていく。
大事な打ち合わせの時刻が迫る。そもそも私はどこにいるのだろう?地図をもつ手が震える。背中にじっとりと汗をかいたこの時のことを私は忘れることがないだろう。
帰国後、私はフランス語の勉強をはじめた。次にフランスに行く時には、絶対に道に迷わない。いや、迷ってしまったとしても、人に尋ねられるくらいの会話力はつけておきたい。いやいや、そんな大層な目標でなくていい。看板をみて、こっちかなと判断ができればそれで十分だ。
ただ、三歳児の子育て中だった私には、時間やお金をたっぷりかけることは難しかった。そこでまず、NHKのラジオ講座で学ぶことにした。これならば毎日15分だし、数百円のテキストを買うだけでよい。
ラジオは毎日カセットテープに録音し、通勤途中の電車の中で繰り返し聞いた。アルファベットの発音もうまくできなかったから、マスクをして小さな声を出しながら会社に向かった。口元を隠さなかったら、とても変な人だと思われただろう。
毎日ラジオを聞くのはとても大変だった。次のフランスに行く時を目指して勉強を初めたけれど、その予定はまったくなかった。一方、ラジオ講座の内容は、どんどん高度になっていく。なんとか真似して発音しているけれど、つづりもわからないし、果たしてこの発音でフランス人に通じるのかもわからない。
「がんばるには、目標設定が大事。着時点が必要」そんな言葉に出会ったのはフランス語の勉強に迷いが出た時だった。何か、目に見える形で成果をだそう。
そこで次にフランス語検定に挑戦することにした。市販の過去問題集を用意して、まずは5級、4級と一年に1つずつレベルをあげていった。この勉強はラジオ講座よりもずっと辛かった。勉強の継続は、自分の意思の強さにかかっているし、わからないことが出てきたら自分で調べるしかない。そして、覚えられなければ、不合格というわかりやすい失敗が待っているだけだ。
仕事と家事、そして母親という三つの役目の手を抜くことはできない。それでもフランス語をやりたいのか?と聞かれたら、よくわからなかった。けれど、久しぶりに検定試験を受けているという自分自身に、正直いうと私は酔いしれていた。かっこいいじゃん私。がんばっているよ私。
フランス語をはじめた頃からすでに十年がたつ。あの頃のように、毎日フランス語に触れているわけではないけれど、忙しい毎日の中で時間を捻出してフランス語に熱中したことは私の誇りでもある。
次にフランスに行くことになったら、の機会はまだ訪れない。けれどいつかきっと来ると信じ、今日もまたフランス語のテキストを開く。
いつかフランスに行くために
水野千夏さん(42歳)/兵庫県/最近ハマっていること:グーグルホーム