信長・秀吉・家康の「ほととぎす」の句はここから
「松浦静山」の名を知る人も知らない人も、次の句は知っているだろう。
鳴かぬなら殺してしまえほととぎす
鳴かずとも鳴かして見しょうほととぎす
鳴かぬなら鳴くまで待てよほととぎす
戦国時代に天下取りで争った三人の武将、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のキャラクターを示す例としてたびたび引かれるエピソードだが、これが世に知られるようになったのは、随筆『甲子夜話(かっしやわ)』に収められたのが最初だ。著したのは松浦静山(まつらせいざん、1760-1841)。肥前国平戸藩第9代藩主で本名は松浦清(きよし)。「静山」とは隠居後の号である。藩主を退いたあと20年にわたって綴った随筆が『甲子夜話』だ。
文政4年(1821)11月17日(甲子の日)に、大学頭(だいがくのかみ)林術斎(はやしじゅっさい)の勧めによって書き始められたこの随筆は、正篇100巻、続篇100巻、第三篇78巻に及ぶ。
書かれた内容は、ロシアやイギリスなどの海外事情、シーボルト事件や大塩平八郎の乱などの重大事件から、幕府や諸大名の噂話、果ては鼠小僧や日本左衛門(にっぽんざえもん)などの盗賊の話までバラエティー豊か。当時の政治経済や文化・世情を知るのに格好の史料とされている。
この『甲子夜話』と、静山の奥方の日記「蓮乗院(れんじょういん)日記」(松浦史料博物館所蔵)から、当時の大名の実際の暮らしぶりを見てみようという一回限りの講座が、日本女子大で開かれた。題して「大名松浦静山の江戸暮らし――随筆・日記にみる松浦家の生活」。講師は同大文学部史学科講師の吉村雅美先生である。
「嘘かもしれないが書いておく」
『甲子夜話』が書かれた時代背景について、吉村先生はこう説明する。
「松浦静山が生きた時代は幕藩体制が曲がり角を迎えた時代です。具体的には老中・田沼意次の時代から、松平定信の寛政の改革、そして天保の改革の直前まで。幕末よりもちょっと前の時代になりますね。生活が贅沢になる一方で収入は増えず、財政の立て直しが急務とされました。各藩でも盛んに藩政改革が行われ、いわゆる「名君」が輩出した時代でもありました。破たん寸前の米沢藩を再生させた米沢藩主・上杉鷹山(うえすぎようざん)もその一人です。
また、対外的には黒船来航(1853年)のちょっと前。ロシアの使節ラックスマンなどが来日した時代です。まさに内も外も大変革の波に洗われようとしている時代に、松浦静山は自分の見聞を次々と書き留めました。さしずめ現代なら、Twitterやブログのような感じで書いていったのではないかと思います。なかには、これはウソかもしれないけど書いておきます、とあるものもあります」
流言飛語は流言飛語としてしっかり書き留めておこうということか。そのおかげで、約220年後のいま、私たちはタイムスリップして当時を知ることができるのだ。このような稀有な随筆を遺した松浦静山とは、どのような人物だったのだろうか。
当初は松浦姓ももらえなかったが、16歳で藩主に
松浦静山は宝暦10年(1760)、浅草鳥越の平戸藩上屋敷で生まれた。藩主の嫡子ではなく、8代藩主の子・政(まさし)と女中との間に生まれた子で、当初は松浦姓ももらえず、山代英三郎と呼ばれていた。しかし、静山のほかに男子が生まれず、父も家督を継ぐ前に逝去したため、祖父の跡を継いで藩主となった。
江戸時代、ほとんどの大名は「参勤交代」によって国元と江戸とを一年交代で行き来し、大名の妻子は幕府に対する人質として江戸暮らしをしていた。静山もその例にもれず江戸生まれの江戸育ち。藩主となってようやく、平戸と江戸を往復する生活に入ったという。
平戸について、学生時代から平戸の「松浦史料博物館」に何度も足を運んできた吉村先生は語る。
「平安時代からこのあたりの海域を支配していた“松浦党(まつらとう)”という武士集団がいます。海賊とも水軍ともいわれたりしますが、その一族の中から出てきたのが、平戸藩主となる松浦氏です。平戸島(長崎県平戸市)という島を中心に、北松浦や壱岐などを領地としていました。平戸には16世紀後半にはスペインやポルトガルからカトリックの宣教師が訪れ、1603年にオランダ商館が置かれてからは、プロテスタントのオランダやイギリスの商人との交易の場となりました。しかし1641年にオランダ商館が長崎の出島へ移ったあとは、捕鯨や農業を振興したものの財政が窮乏していきました」
藩財政がひっ迫するなか、安永4年(1775)に祖父の隠居により16歳で藩主となった静山は、精力的に財政改革・藩政改革を推し進める。その土台としたものが、教育による人材育成である。藩校「維新館」を設置し、その教授陣を育成するために藩士を京都の儒学者・皆川淇園(みながわきえん)のもとに遊学させたりもした。また、蘭学を含め多くの洋書を収集した。
コレクションの一つには、オランダ東インド会社の医師として来日したドイツ人ケンペルの『日本誌』も含まれていた。『日本誌』はヨーロッパに日本の支配体制を知らせる書となった。のちに蘭学者・志筑忠雄(しづきただお)が『日本誌』の一部を日本語訳し、『鎖国論』と名づけた。この『鎖国論』こそが「鎖国」という言葉が使われた最初の例となった。
絵図の中の黒丸印の意味するものは?
松浦静山が藩政改革を進めたものの、これだけ洋書を集めたにもかかわらず藩内に静山の学問的知見がそのまま広まったわけではなかったと、吉村先生は言う。ペリーが来航し、軍事技術についての知識や洋書の需要が高まってくるまでには、まだ数十年を経なければならなかった。静山は時代を先取りしすぎたのだ。
また、平戸藩に限らず九州の藩にはやや特殊な事情があった。貿易港である長崎港の警備をしなければならないので、ほかの藩より国もとにいる期間が長いのである。しかし静山は国もとより江戸で暮らすことを希望した。出世して勘定奉行などになることも一時、夢見たようだが叶わず、静山は47歳で隠居する。以後、平戸には帰らず、 82歳で没するまで、本所の下屋敷(しもやしき)で暮らした。隠居した後も、月例の江戸城登城日には上屋敷(かみやしき)に行き、江戸城を遥拝していたという。
吉村先生は江戸の切絵図を見せながら説明する。
「大名の江戸の屋敷には、上屋敷・中屋敷・下屋敷がありました。上屋敷は藩の正式な邸で藩主が居住し、他の大名を応接する場でもありました。中屋敷は側室や将来の藩主などが住む場でした。下屋敷は蔵として藩の産物を置いておく場所として使用されるか、郊外に建てられた場合には別荘として使われることもありました。
絵図の中には大名名に家紋が入っているところ(1ページ目冒頭の絵図参照)と、黒い■や●印のところ(このページの上の絵図参照)があります。家紋が入っているのが上屋敷、■印が中屋敷、●印が下屋敷です。名前が左を向いたり右を向いたり上を向いたり下を向いたりしていますが、これは正門がどっちに向いているのかを示しています。平戸藩主松浦壱岐守(まつらいきのかみ)の上屋敷は、浅草橋周辺にありました(1ページ目の冒頭の絵図を参照)。現在は都立忍ケ丘高校の中にその庭園の一部が残っています。平戸藩の場合、中屋敷はありませんでしたが、下屋敷は隅田川を渡った本所にありました。絵図のなかでグレーに着色されているのは庶民の家です」
吉村先生の解説によれば、大名とその家族が生活する江戸藩邸には、さまざまな身分・立場の人々が出入りし、藩の正式な行事のほかに、「女性と子ども」の生活の場である「奥向(おくむき)」の行事も行われ、贈答や接待が一年中続く交際の場であったという。殿様であると同時に一級の文化人でもあった静山は、この江戸藩邸を舞台に他の大名家の殿様だけでなく、当時北方探検家として知られた最上徳内や近藤重蔵、著名な蘭学者の桂川甫周、杉田玄白らと交流し、知識人のネットワークを形成していく。
次回の記事では、藩邸を舞台にした交流を、『甲子夜話』だけでなく、静山の夫人の日記「蓮乗院日記」も参考に読み解く。
〔続きの記事〕
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取材講座:「大名松浦静山の江戸暮らし――随筆・日記にみる松浦家の生活」(日本女子大学公開講座)
文・写真/安田清人(三猿舎)