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「腹を切る切る詐欺」細川幽斎の、ためになる保身術

幽斎が植えたという、京都・吉田神社の幽斎桜

人気歴史学者・本郷和人先生(東京大学教授)によるあまりにも濃い、細川忠興・ガラシャ夫妻の愛憎話に続くのは、細川忠興の父・細川幽斎の天才的ともいえる保身エピソード。これは自分の会社・地域・学校といった小さなムラ社会でもアルアル、とうなずいてしまう。3回にわたった講義録は、今回が最終回。戦国時代を生き抜いた幽斎の保身術は、現代社会でも意外に役に立つかも!?

(「なぜガラシャはクリスチャンなのに死を選べたか?」に続く)

関ヶ原前夜、石田三成が挙兵した時、細川忠興は家康の上杉討伐に従軍していた。その留守を預かる細川忠興の妻・ガラシャは、三成に人質にとられそうになり、邸に火をつけて自死した。ではその時、忠興の父の幽斎がどこにいたかというと、舞鶴の田辺城にいたのだった。

細川家の本拠地は丹後国の宮津である。ところが、この宮津が城としては堅固ではなかったため、宮津の軍勢を舞鶴の田辺に移し、田辺城で幽斎が籠城戦を展開することになったのである。

細川幽斎が籠城の道連れにしたネタは?

本郷先生は語る。
「このときの籠城戦が非常になまぬるかったらしい。城を囲む西軍の主将は丹波福知山城主小野木重次で、その石高はたった4万石。包囲する兵は一応1万5000と言われていますが、1万人いくかどうか、という程度だったんじゃないかと思います。対して田辺城のほうも守る兵は1000人いくかどうか。とてもじゃないけど城がもつわけがない、あっという間に落ちるだろうと思われたわけですが、ここで細川幽斎が、とんでもない粘り腰を見せる」

「幽斎が最後の切り札として持っていたのは、なんと〈古今伝授〉だったんです。古今伝授というのは、『古今和歌集』の歌の解釈についての口伝。『この歌はこのように理解するのである』とか、『この箇所はこのように解釈すべきである』とかを、一子相伝で口頭で代々受け継ぐ。

そう聞くと、大層なもののように思えるけど、出来たのは室町時代の半ば。作ったのは東常縁(とうのつねより)で、公家でもない、武家の人。しかも一子相伝とかいうけど、堺の豪商に伝えられた古今伝授もあったらしい。ところがですね、室町時代を代表する文化人の三条西実隆という人がこの古今伝授を受け継ぎます。で、三条西実隆から、息子の公条(きんえだ)へ、そしてその息子の実枝(さねき)へというかたちで、古今伝授が伝わっていく。しかし、この実枝の子が早世してしまったものだから、古今伝授ができなくなった。

そこで、当時を代表する教養人であり歌人であった細川幽斎に、『あなたに伝えるのは一代限りですから、かならずや、あなたから私の孫である実条(さねえだ)に伝授するように』という約束のもと、古今伝授をしたのです」

ところが幽斎は、この古今伝授をいわば人質にして籠城したのである。

幽斎は実条に古今伝授をする前に、田辺城に籠城した。そして朝廷から、停戦命令が届き、田辺城は開城する。幽斎の降伏が認められ、幽斎も城兵も命を失うことはなかった。

 

幽斎の冴えわたるネゴシエーション

「思うに幽斎は、ぜったい企んでいた。いったん事あれば、この古今伝授ネタを使おう、と。しかもこの時、古今伝授が途絶えることを恐れた朝廷側が停戦命令を出したことになっているけれど、僕は幽斎のほうから動いたのじゃないかと思ってる。『俺、死んじゃうと古今伝授絶えちゃうけど、いいのかな~?』という感じの情報を朝廷に飛ばしたんだと思うね。そこで朝廷もびっくりして、『幽斎を殺すな。すぐに戦いを止めろ』という命令を出した。

おもしろいことに、城を攻めている側にも古今伝授の関係者がいるんだよね。それが前田茂勝。この茂勝の姉妹が、古今伝授を受ける第一候補の実条さんの奥さん。これって完全に出来レースでしょう? 前田茂勝は西軍についたのに、家康に本領を安堵されてるし。

幽斎のさらにズルいところは、朝廷からの提案にすぐには飛びつかないところ。朝廷から停戦命令が出ても、しれっと『私は武士ですから自害します』なんて、いけしゃあしゃあと言う。表向きは、『武士の名誉を守らねばならない……』とか何とか言いながら、結局生き残るわけですよ」

いるいる、そういう人。何かと「もう引退だな」とか「後進に道を譲る」とか言いながら、「俺がいないとこの案件どうなるのかな~」なんてつぶやいたりする人。しかもその人質案件が唯一無二の重大なものだったりすれば、安泰度はぐーんと上がる。しかし、そのカードも何回も切ると価値が下がる。幽斎はそのカードを、これ以上はないタイミングで切ったわけである。しかもこれは、家康に恩を売ることにもつながったらしい。

幽斎が1万からの西軍の将兵を田辺城にひきつけたことは、東軍にとって間違いなく大手柄だった、と本郷先生は語る。もしそれだけの軍勢が関ヶ原に行っていたら、戦いの様相は変わったかもしれない、という。幽斎がそこまで計算したかどうかはわからないが、戦わずして成果をあげたことは間違いない。

しかし、これで収まらないのが、頭のイカれた忠興である。

忠興は、実の父・幽斎の命が助かったことを聞き、喜ぶどころか激怒したという。なぜ死ななかったのか、と怒り、顔も合わせなかった。

この父と子は、その後もうまくいかなかった。論功行賞で忠興は石高三十九万九千石を得て小倉に行くが、幽斎は京都で暮らし、京都で死んだ。このあたり、黒田官兵衛・長政親子が仲良く福岡の町を作ったのとは正反対であった、と本郷先生はいう。そして忠興は、関ヶ原の戦いはとっくに終わっているのに、細川家に恥をかかせた人間を許さず、どこまでもどこまでも追いかけていく。

どこまでもしつこい忠興

「忠興のすごいところは、もう関ヶ原の戦いは終わってるのに、田辺城を攻めた小野木重次を、追いかけて追いかけて、最後、腹を切らせているところ。ねちっこいでしょう? この調子でガラシャのことも追いつめたんだろうと思うね。

さらに忠興は、忠隆の妻の千代が、ガラシャの死の前に脱出したことも気に入らなかった。千代がうまく脱出できたのは、細川邸の隣が宇喜多邸で、千代のすぐ上の姉が宇喜多秀家の妻の豪姫だったから。だからすぐ逃げられたのだけど、これが細川忠興は気に入らない。なんでおまえの嫁は死ななかったんだ、うちの嫁は死んでるぞってことなのか、嫡男の忠隆は廃嫡されてしまいます。かわって細川家を継いだのは、三番目の息子の忠利。

廃嫡された忠隆は、千代とともに祖父・幽斎を頼って京都に行きますが、その後、千代は実家に戻り、前田家の重臣である村井長次っていう人と再婚してしまう。妻に逃げられた忠隆は、別の女性を娶り、生まれたのが忠春。この人が細川家に仕えて、細川内膳家となります。この家はガラシャのDNAを引き継いでいる。でも細川本家のほうは、途中で一度分家を入れているので、たとえば総理大臣になった細川護煕さんには、ガラシャさんのDNAは引き継がれていません」

一気呵成の90分。つぎつぎと繰り出される忠興のしつこさ、幽斎の狡猾さは辟易としてくるほどだ。しかし聞き終えて思った。ガラシャはたしかに悲劇の女主人公だ。そのガラシャは宣教師に自死の是非を問うたあと、最後に、“彼女は大変満足した”表情を浮かべたという。それは、死してようやく細川父子と別れられるという安堵の笑みでもあったのでは? それが彼女の細川父子に対する最大の復讐であり、結果として多大なる貢献ともなったというのは、歴史の皮肉というべきか。

明智光秀の娘として生まれ、戦国一のキレ男ストーカーに嫁ぎ、狡猾きわまりない教養人の舅に仕えた、戦国一賢い美女。それが細川ガラシャだ。やはり、“歴史の陰に女あり”である。

 

編集部よりお知らせ:2017年春の本郷和人先生による「日本中世史講義」はすでに満員となりました。早稲田大学エクステンションセンターには「会員先行受付」がありますので、会員登録をおすすめします。お申し込みはこちらから。(外部サイトに接続します)

 

〔講師の今日イチ〕 忠興もガラシャもキャラが濃いけれど、教養というベールで覆われた幽斎のずる賢さが、みんな持ってった感じです。

〔前の記事〕なぜガラシャはクリスチャンなのに死を選べたか?

取材講座データ
日本中世史講義 戦国ななめ読み 早稲田大学エクステンションセンター中野校 2016年度秋期

2016年11月29日取材

文/まなナビ編集部