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「無我」と「縁起」を理解すれば仏教思想は腑に落ちる

仏教について語る東洋大学の竹村牧男学長

日本人の生活に身近な仏教。しかしどういう思想を持つのか、よくわからない。そこで、東洋大学で「『仏教入門』~日本人の心に脈々と生きる仏教とは何か~」を開催している竹村牧男学長にお願いをした──「今までわからなかった仏教の思想を、できるだけコンパクトに教えてください」

「無我」とはけっして自分をなくすことではない

竹村先生は、「仏教の根本概念を理解するのに大切なのが、“無我”と“縁起”です」と語る。私たちは“無我”という言葉をよく「無我の境地で」(よけいなことを考えないで、という意味で)などと使う。では、仏教思想の“無我”とはどういう状態をさすのだろうか。

「“無我”と聞くと、自分をなくさなければならないのか、と考える人がいます。たしかに“無我”とは自我がない状態です。しかし、いまここに生きているかけがえのない自分はいない、などといっているのではありません。

“無い”とされているのは、“常・一・主・宰”と規定されるものについてです。常にそこにあって変化せず、同一で、しかも主体的な存在であると考えられているものは、“無い”というのです。そう、常住なる永遠不変の自我は無い

そして、この“無我”というあり方の中にある本当の自分を示してくれるのが、仏教なのです。これが仏教の人間観です」(竹村先生。以下「 」内同)

永遠不変の自我はない。しかし、かけがえのない自分はいる。ではどこにいるかというと、関係性の中にいる。それが“縁起”の世界だ。

“因”と“果”の間に“縁”がある

“無我”と並んで仏教の根本概念をなすものが“縁起”だ。私たちが「縁起がいい」「縁起が悪い」と使うとき、そこには何らかの因果関係を感じとっていることが多い。

そのとおりだが、単純な因果関係では終わらないのが、仏教における“縁起”である。それを竹村先生は、「“因(原因)”と“果(結果)”の間に、“縁”がある」と説明する。

「何かの現象(出来事)が起こるのには“因”が必要なのですが、因だけでは起こらないのです。そこには“縁”が必要です。“因”が直接的原因とすれば、“縁”は間接的な条件。直接的原因と間接的条件とがあいまって、初めて現象が生じるのです」

どんなに才能のある人であっても、チャンスだとか巡りあわせなどの間接的条件に恵まれないと、世の中で成功しない。逆に、取り立ててくれる人がいたり時の運を得たりしても、本人に実力がなければ成功し得ない。これは人の世でしょっちゅう見聞きすることであるが、仏教はこのように、事実を事実として見つめた科学的な見方をしていると、竹村先生は言う。

「仏教はこのように、実体論的世界観ではなく、関係主義的世界観を持っています。あらゆるものは関係性の中にあって初めて存在し得ているから、自分で自分を支えているものはない。自分で自分を支えるものではないということは、本体がない、ということです。関係の中で初めてありえている。これが仏教の世界観なのです」

そしてここにはもうひとつ、仏教の持っている本質が横たわっている。それは、“絶対的な神”を持たないことだ。

仏教は絶対者を持たない

「この因・縁・果の関係性のなかで、個々の実態は“空(くう)”です。そこに常住の本体はありません。これは、現象のようなものから、絶対者のようなものまで、同じです。

仏教のひとつの特徴は、宗教的な絶対者みたいなものを実体化しない、ということです。“絶対”とか“神様”みたいなものをデーンと置いて、そのもとに人間が生きていくのではなく、現象の本質本性を「空」でとらえる。「有」ではないが、「無」でもない。「空」なのです。常住の本体とか実在とか、そういうものを徹底的に否定したところに成り立っている見方・考え方です。

このように、人間の主体性を縛るものを、仏教は何も持っていない。掟もなく、支配もされていない。そうしたものを一切超えて成立しているのが仏教なのです」

このような仏教の“神”観は、キリスト教の“神”観にも影響を与えているという。なかには仏教の空性(くうしょう)で“神”を考えたほうが、イエスが説いた本来の“神”に近いのではないかという意見もあるという。

さらに、竹村先生の話は続く。続きの“唯識(ゆいしき)”の世界観については次回に。

(続く)

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取材・文・写真/まなナビ編集室