まなナビ

12月はこんな作文が集まっています![4]

12月31日に締め切りとなった第5回「学びと私」作文コンテスト。1次審査を通過して第5回金賞候補作になった作文のうち一部をここで紹介します。テーマは「語学を学んで」です!

継続は力なり

『お母さん、今回の英語のテスト42点なんや。めっちゃ悪いんやって。』と17歳の長女が言ってきた。『42点かあ。ちょっと見せて。』と口先では優しく言ったが内心では『42点って勉強していないな。』と心では火山が噴火する前のマグマが口元まであがってきているような心境だった。問題と答案用紙を見て『勉強していないな。なんて言わなくてよかった。』と正直胸をなぜおろす自分がいた。あまりにも難しく手も足もでなかったからである。
 問題を見ながら、英語の復習からだと思い、中学3年の長男の教科書ガイドを見ながら復習する。中学3年の問題も解けなかった。『やばい。基礎が全くだ。』と思い中学1年までさかのぼり勉強することにした。はずかしながら自信をつけるためと言うのがが正直な気持ちであった。毎日続けていくうちに問題もだんだん解けるようになった。ホッとする自分とまだ高校生の問題まで解けるレベルにまで至っていないためひたすら参考書を開き問題を解く日々。『おっ、大分成長したな。』と手応えがあったのは、始めて3ヶ月が経った時だった。『お母さん、すごいやん。参考書付箋ばっかりやん。こんなに付箋はってるんだから、そりゃ上達しているわけだ。すごいやん。』と3人の子供たちに褒められた。褒められるというのは何歳になっても嬉しいものだ。心がバラ色になり意欲向上にもつながる。
 更なる向上を目指して英語の勉強に打ち込む。『うーん。このままでは参考書という固いお手本だけだ。もっといろいろな方向から学ばないと。』と考えていた。その時、8歳の次男が読書をしていた。それも声を出して読んでいた。『なぜ、声を出して読んでるの。』と聞くと『声を出して読むと覚えられるんだよ。』と次男が言った。『これだ。英語の本だ。図書館にいって英語の昔話でも借りてこよう。』とひらめき図書館に足を運んだ。『桃太郎』の英語訳された本を借りてきた。びっくりすることに毎日2時間読書に時間と要した。英語版で書かれた本は私にとって素晴らしい未知の世界を教えてくれえた。『こんな言いまわし方もあるんだ。』と日々読書から学ぶことは測りきれなかった。
 私はクリスチャンで毎週教会に通っているが、ある日外国人が日曜礼拝にやってきた。外国人の人は7か国後をしゃべれるみたいで片言日本語も喋っていた。岡山に今から行くようで岡山と言えば『桃太郎』と思い英語で話した。意外にも日々の小さな訓練は大きな成果となって実を結んだのである。まさに英語の本のページを頭の中で誰かがめくり、口元も誰かが操っているかのようで、言葉が溢れでるのであった。外国人は昔話に興奮していた様子でとても喜んでいた。
 私にとって最初は英語を学ぶきっかけは長女のテストだった。何も分からない私がいろいろな方法で英語を学び、今では外国人と英語で話せるまで成長した。他国の人と話せることは考え方も広がる。さらには、話すことで歩みよれる。
今、私の心にある喜びは他国の人と英語を使って通じ合えた喜びで満ちている。これが英語学習の最大の魅力だと私は思う。歩み寄れる最大の手段だ。

のあつばさあぐりさん(43歳)/香川県

 

自信をくれたインドネシア語

英語で落ちこぼれ始めたのは中学2年生のときだった。
単語や熟語を覚えるのは得意だったので中学一年生のときまでは何とかついていった。
しかし文法が複雑になった2年生の2学期、英語のテストで半分もとれず、
それ以後ずるずると、どうする手立てもないままに、本当にずるずると落ちこぼれていったのだった。
高校に入ってからも相変わらず単語と熟語を覚えるだけしか能のない私は、構文も文法も理解しないまま力づくで暗記をして、中の下くらいの大学にすべりこんだ。
国語と世界史が得意だった私は、英語さえなければもう2ランクは上の学校にいけたのに!
と悔しくて仕方がなかったことを覚えている。
入学したのは経済学部。
大好きな文学系の学科は英語の配点が高かったため、配点がすべての教科で同じだったがあまり興味のない経済学部に進むことになった。
学びたい学部より大学に入学することを優先したのも苦手な英語のせい。
英語のために何をやってもうまくいかない・・・。そんな思いが強くなっていった。
そんな私はどのような運命のめぐりあわせか、30歳を過ぎたころ、日本語教師になりインドネシアで教えることになった。
「海外=英語」というイメージで縁遠いと感じていた外国。自分でも驚きだった。
しかも、インドネシアは英語があまり通じないので最低限のインドネシア語を話せなければ暮らしていけないという。
英語が通じない国。
それがとてつもなく心地よく響き、ここでなら外国でもやっていけるのではないか、と淡い期待を抱くようになった。
はじめて手に取るインドネシア語のテキストも私に希望を与えてくれた。
インドネシア語には英語のような時制がない。過去も未来も動詞に変化がない。
過去だったら「昨日」、未来だったら「明日」などの単語をつけるだけだ。
発音も舌を丸める必要がなく日本語のようなローマ字読みでどんどんいける。タクシーなら、日本語読みで「タクシ」である。
インドネシア語は私の肌に合い、6年の滞在の間に語学力はビジネスに支障がないほど上達した。
そして面白いことに気づいた。英語の話せる人は何年滞在してもほとんどインドネシア語が話せないままだったということだ。
庶民の生活ではインドネシア語が欠かせないがビジネスでは英語はある程度は通じてしまう。
だから英語のできる彼らにはインドネシア語を学ぶ必要がなかったのだ。
そして30代の半ばを過ぎて私は帰国することになった。大きな語学への自信と一緒に。
インドネシア語を学ぶ過程で一つ気づいたのは、語学に対する潜在意識の関りだ。
私はいつもインドネシア語を話すときには無意識に「私はできる」と思いながら話していた。どんなにつたなくても、である。
しかし、英語を話すときには、ほんの単語一つを口に出すときにでも「私はできない」と思って話していたのだ。
「英語はできない」という潜在意識が英語を苦手にしていたのか。
たったそれだけだったのかという思いとともに中学2年生から始まった英語との長い苦闘が思い出された。
今、インドネシアから帰国して10年が過ぎ、年齢も40代も後半に差し掛かった。
驚くべきことに、1年前から英語の学習をはじめ、なんとなく続いている。しかも少しだけだが話せるようになってきた。それだけでなく英語を好きになってきた!
まだまだ無意識では難しいが「私はできる」と思いながら学んでいる。
インドネシア語の学びがもたらした「私はできる」という自信が大きく影響していると思う。
インドネシア語での経験は、天敵だった英語まで味方にしてくれそうで、これからの上達を楽しみに学びを続けていきたい。

やなぎあきこさん(47歳)/千葉県

 

航海への扉

 私は語学を勉強すると、素敵な望遠鏡を手にしたような気持ちになる。言葉を勉強している国がテレビに映ると言葉を聞きたくてつい見てしまうし、全ての意味は分からなくてもその国の本を読みたくなる。日本と違う海の向こうの風景に思いを馳せることができるし、思い切って海を渡って、町の様子を見たり、直接現地の人と話をしたりすると、その国に縁を持ったかのような親しみが生まれる。語学は、海の向こうにある遠い景色を引き寄せてくれるのだ。
 私は、中学生の時に独学でロシア語の勉強を始めた。私が住んでいた青森は、ロシアが近いのでロシア人との交流が活発に行われていて、私の学校でも定期的にロシア人との交流があった。
 テキストを進めていくと、ロシア語は、おもちゃのような可愛らしい文字だが、遥か北国の雪の女王が唱えている吹雪のような、美しく透明感のある独特な発音が印象的であると感じた。その言葉をCDの後に続いて発音してみたり、テキストと同じように書き写したりするだけで、今まで見たことのない場所へと行くことができる、秘密の扉の鍵となる言葉を覚えているようなわくわくとした気持ちになった。
 実際ロシア人と交流する時間はあっという間に過ぎていったが、お互いの文化を紹介したり、一緒に「カチューシャ」と「ふるさと」を歌ったりして、海を隔てた未知の国が、一気に手を伸ばしたら届くくらい近くのように感じた。もっと知りたい、近づきたいと思い、ロシア語を勉強できる高校に進学した。
 その高校の研修でロシアの極東ハバロフスク市を訪れたことがある。美しく、かつ威風堂々と構える教会が町のあちらこちらに建ち、広場も多く開放的で、建物の色彩が豊かで可愛らしい。女性は年齢問わずお洒落を楽しんでいて、ホテルの宿泊客は私たちに陽気に声をかけてくれたのが印象的だった。さらに、現地の同世代の人たちの文化を紹介してもらったり、言葉を交わしたりすると、今まで一生懸命言語を勉強してきた異国と、私たち日本の一個人がつながったような感覚になった。語学を勉強することで、海の向こうのわくわくするような扉を見つけ、現地に行くことで、少しその先が見えた気がした。
 ロシアから帰ってきた後、テレビの世界の天気でロシアの気温を見る機会が増えた。ロシア政治や経済の報道も、歴史的背景を掴みきれていなくても、とにかく注目するようになった。私がロシア語を習っていたというきっかけで、日本に住むロシア人の店員と、お酒を飲みながらロシアの魅力を語り合ったり、一緒にロシアのポップミュージックを歌ったりすることもあった。語学を勉強していくと、遠すぎて見えない景色を肌で感じることができるのだ。
 日本人同士でさえ、言葉を重ねなければお互いを理解できないことがある。異国の文化で育っていればそれは尚更だ。語学を学べば学ぶほど、遠くの知らない文化を近くに感じることができる。新しい考えを覗くことができる。地道な努力を続ける分、その素敵な望遠鏡は精度が高くなっていく。これからもその望遠鏡を携えて、国際化が進む現代の航海を楽しみたい。

みこさん(28歳)/宮城県

 

あの時感じた不慣れなリズム

 高校二年生、修学旅行の目的地は台湾だった。僕にとって始めての海外旅行であり、中華圏の人々との交流だった。飛行機を降りるとそこは異国で、耳に不慣れなリズムで中国語が響き、波打っていた。当然ながら何を言ってるかなどほとんど分かるはずがなかったのだが、街にある看板に書いてある文字の羅列からは何となく意味を推測することが出来た。その時僕は自分の中では世紀の大発見とも言えるべき発見をしてしまった。日本語にも表記の方法として漢字がある。だから僕は中国語の漢字の羅列を見るだけである程度の意味は推測することが出来た。しかし他の言語を母語としている人々はそうはいかない、漢字を覚えなくてはならないのだ。日本人にとって、漢字が得意な僕にとってこんなにも学びやすい言語は他にあるだろうか、いいやきっとないだろう。修学旅行中にこの大発見をした僕は帰国後一ヶ月が経った頃には中国語を学び始めていた。予想通り漢字の部分については日本語と通ずる箇所が多く、改めて学ぶ必要はほとんどなかったのだが発音の方法や口、舌の動かし方は日本語にはないものがあった、修学旅行の時に不慣れなリズムだと感じた理由は聞き慣れていた日本語にはない発音方法があったからなのだ。発見から生まれた新発見、そして学んでいくうちに最初は違和感を感じた中国語のリズムに格好良さを見出してしまった僕は発音を極めようと決心した。発音を極めるために必要な事はとにかく開口して実際に喋ることだと考えた僕はとにかく喋り続けた。中国語の授業時間は常に先生と途切れ途切れだがお喋りをしてもらい、単語を覚える時も見て書いて口に出した、そして終いには自転車を漕ぎながら目に入った漢字を中国語発音でぶつぶつ一人で読み続けた。やるならとことんやってやろうと思った僕は自分の中国語のレベルをここまでにしてやろうとある日ひとつ目標を定めた、ネイティブスピーカーと中国語を使って話した時に「あなた中国語上手いね」と言われない状態までにしてやろうと。しかしこれがなかなか難しい、まず何が難しいかというと先生以外のネイティブスピーカーと話す事のできる機会が僕が故郷に住み続けている限り非常に低いのだ、近年中国や台湾からの観光客が増えているとはいえ比率としてはもちろん日本人の方が多い、せっかく習った中国語も使っていないと進歩はしない、むしろ退化してしまう、日本に住み続けている限り生活で使う単語は中国語ではないのだ。ネイティブスピーカーからネイティブに勘違いされる為にはネイティブに囲まれて生活するのが最善の策である事に気づいた僕は今、台湾の大学へ通っている。中国語に四方八方囲まれた生活を送っている、自分で言うのもなんだが中国語を使い意思疎通を図る自分の姿は格好良いのではないかと密かに胸の内で思っている。
 あの時感じた不慣れなリズムを自分のリズムにする為に僕は台湾までやって来た。

岩井響さん(19歳)/広島県

 

ロシア語を学んで

 ロシア語の勉強を始めた。一度挫折した。東京にいるときだ。途中で授業にいかなくなった。近くの古本屋で2000円でロシア語の辞書は手に入れた。夫の転勤に伴って金沢に住んだ。国際理解のためのロシア語講座を受けることにした。受講料も10回で8000円というお財布にやさしい価格だ。先生はアンナ先生という女性。本場のロシア語。明るく一生懸命教えてくださる。ロシア語の勉強を始めると、自分の感情をロシア語で表現できることが生きている間にできるのだろうかと考える。あれやこれや日本語で想うのはもう日本語は堪能になりすぎたということかな。ロシア語ではこんにちは、ごきげんいかが、さようなら、ありがとう、くらいしかいえない。
 ロシア語を習い始めて、わたしの名前、りえ、があちらこちらにでてくる。夏の、というのはりえたん、と聞こえる。りえたん、と呼ばれると、生まれた頃住んでいた社宅の窓からみたオレンジに染まった夕焼けを思い出す。その頃近所に住んでいた人に呼びかけられたような懐かしい感じがする。
 りえたんと聞こえる音は夏のというのも驚きだ。なぜならわたしは夏に生まれたからだ。わたしの名前はりえであって、夏子ではないと思っていた。だけれどもロシア語では、夏乃、という名前だそうだ。まるで江戸時代の厳格な女性のような名前ではないだろうか。    グリコアーモンドキャラメルのキャッチフレーズ、二度おいしい、を思い出したりした。自分の名前がモダンで新しい名前と当時は想っていたのに、夏乃。逆に江戸時代の厳格な女性のような名前になるのだった。
 故郷の神戸もKOBEとКафеもなんとなく似ている。だから神戸にカフェが多いのかなと思ったりもする。
горькоゴーリカはロシア語で苦いなを意味するらしい。合理化。21世紀に向けて仕事をしていた頃、ITを導入することにより合理化を推進することができますなどと説明をしたりしていた。確かに、合理化は苦みを伴う。合理化で人件費を削減できますなど建前的なことを並べていたものな。
 このように意外なところにロシア語と同音のものがあったりする。そうはいってもなかなか覚えられない。クラスの中では一番の落ちこぼれだ。それでもみんなあたたかく接してくれた。先生は明るくほがらかなんだけれども真面目だ。その真面目さに接すると知らず知らずのうちに私自身も真面目になった。受験勉強をしていた頃を思い出した。ひとつ単語を覚えるごとに新しい明日が開けるような気持ちになったあの頃。
 授業は終わった。先生はお茶とチョコレートを振る舞ってくださった。そうして終了証もいただいた。空いている時間にロシア語を勉強をしている。まだまだ全然なんだけれども。

鈴木理絵さん(51歳)/石川県

片言の韓国語

 韓国海苔のゴマ油の香りと塩味が大好きで、よく買って食べている。ある時、その袋に書いてある模様のようなものに目が留まった。それが韓国語の文字だと知り興味を持った。最近、JRの駅名が韓国語でも書かれるようになった。新型バス内の停留所案内も、ローマ字の次に韓国語で表示されるようになっている。あの記号のようなハングル文字に対する関心が、ますます強くなっていった。
 女子校で英語教師をしていた私は3年前に定年退職をして、男子校の非常勤講師になった。同僚のS先生が僅か3年で韓国語を習得したと聞いた。その先生から韓国語は日本語と文法が似ているので、日本人にとっては学習しやすいとも聞いた。元々外国語学習に関心のあった私は「韓国語をマスターしよう」と決心した。そこで早速、韓国語学校に週1回通い始めた。
 入門クラスだったが、完全な初心者は私一人で、他の10数人は様々な形で韓国語・韓国文化に親しみ、かなり強い動機を持って学習しているようだった。例えば、20年以上ハングルドラマにはまっていて、韓国旅行の回数も20数回の人、K-popが好きな人、韓国料理が好きな人等だ。それに引き替え、私はハングル文字に関心があり、日本語の文法とどのように似ているのか知りたいことだけが、韓国語学習の動機だった。更に私は韓国ドラマを見たことがなく、韓国料理も食べたことがなかった。そんな私の自己紹介を聞いて、先生は勿論のこと、クラスメイトも驚いたようだ。
 授業が始まり、ハングル文字の構成、組み合わせ方、発音を知り、ますます興味が深まった。しかし単語を覚えるのは難しく、苦労している。イタリア語、フランス語のようなアルファベット系の言語は、それほど苦労せずに覚えられたのに、どうしたのか、加齢のせいなのか。昼間は英語教師として「音読しなさい。表現を覚えなさい。」と、高校生に口を酸っぱくして指導しているくせに、こと韓国語学習になると全然実践していない自分に気づいた。これこそ「紺屋の白袴」である。
 東京都庁の展望台で月1回程度、英語のボランティアガイドをしている。ある日、韓国人の若い夫婦を案内することになった。ご主人は英語ができるが、奥さんは英語が分からないようで、私が英語で説明すると、ご主人が奥さんに韓国語で説明していた。奥さんは英語が分からないせいか、つまらなそうにしていた。そこで私は奥さんに向かって、「私は韓国語を勉強しています。韓国語は難しいけれど面白いです。韓国に行きたいです。日本はいかがですか。」と、覚えたての韓国語で話しかけてみた。するとそれまで不愛想に見えた奥さんの顔がパッと輝き、満面の笑みを浮かべて、韓国語で話し始めた。ところが私は全く理解できず、「勉強を始めたばかりなので…」と、慌てて英語で言わなければならなかった。私の片言の韓国語を聞いて、奥さんがあんなに嬉しそうに話しだしたことは、大きな驚きだった。夫婦は別れる時に、一緒に写真に入って欲しいと言うので、一緒に写真を撮った。そして韓国に来る時には必ず連絡して、と言ってメールアドレスを書いてくれた。
 あの経験によって、私は韓国語を学ぶ真の楽しさが分かったような気がした。今は以前とは違って、少しでも話せるように様々な表現を覚えようと努力している。その努力も今では苦になるどころか、楽しくて仕方がない。この楽しさのお蔭で挫折せずに、3年目を迎えることができそうだ。自国の文化、言語に関心を持ってくれていると分かると嬉しいものだ。もっと韓国文化を知り、韓国語を身につけて、隣国の韓国の人達と対話できるようになりたい。あの夫婦に再会して、今度こそ韓国語で話したい。それも、よどみなく。

菊池浩美さん(68歳)/東京都

(一部の作文で編集室が文字の修正をしています)

過去の「学びと私」コンテストの金賞作品はこちらから
11月(第4回)の金賞3本が決定しました
10月(第3回)の金賞3本が決定しました
9月(第2回)の金賞3本が決定しました
8月(第1回)の金賞3本が決定しました