東京をパリのような街にー新橋発・放射街路官庁街計画

東秀紀先生の「江戸・東京まちづくり物語」(その1)@首都大学東京オープンユニバーシティ

2018年は明治維新150周年。欧米列強に追いつこうと、日本は背伸びするくらいの西欧化を行った。華やかな社交場・鹿鳴館の建設もそのひとつだ。更に外務大臣・井上馨(かおる)は、その都市計画版も企んだ。それが日比谷にパリやベルリンにそっくりの街並みをもつ官庁街を作ろうという日比谷官庁集中計画だった。

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在りし日の鹿鳴館(国立国会図書館データベースより)。このそばにパリに似せた日比谷官庁街ができるはずだった。

2018年は明治維新150周年。欧米列強に追いつこうと、日本は背伸びするくらいの西欧化を行った。華やかな社交場・鹿鳴館の建設もそのひとつだ。更に外務大臣・井上馨(かおる)は、その都市計画版も企んだ。それが日比谷にパリやベルリンにそっくりの街並みをもつ官庁街を作ろうという日比谷官庁集中計画だった。

鹿鳴館はどこに建っていたのか

明治の文明開化の象徴として取り上げられる鹿鳴館。あれだけ名前は有名なのに、どこに建っていたのか知っている人は少ない。なぜなら残っていないから。

鹿鳴館は皇居にほど近い、日比谷の地に建っていた。鹿鳴館が社交界の花形であったのは、わずか数年に過ぎない。竣工したのは1883年、全盛期はわずか4年ほどで、1890年に宮内省に払い下げられた。その後は華族会館として使用されたり、生命保険会社に払い下げられて物置同然に使用されたりしていたが、太平洋戦争開戦前年の1940年、土地の有効活用のために取り壊された。

首都大学東京オープンユニバーシティ「江戸・東京まちづくり物語〈東京編〉」では、鹿鳴館を計画し、日比谷を西洋化の見本市にしようとした井上馨の野望が語られた。井上は、伊藤博文が初代総理となった初の内閣で外務大臣となった人物である。

鹿鳴館の設計者コンドル、井上の期待を裏切る

鹿鳴館を設計したのは、ジョサイア・コンドル。イギリス・ロンドン出身で、西欧から日本に来た初めての建築家だった(彼より早く来日し、銀座煉瓦街を設計したトーマス・ウォートルスは土木技師だった)。

コンドルは、鹿鳴館をはじめとする数々の西洋建築を設計したが、多くが震災・戦災で焼失あるいは取り壊され、今に残るものは綱町三井倶楽部(東京都港区)、旧岩崎邸庭園(同台東区)、旧古河庭園(同北区)ほか数点に過ぎない。コンドルは舞踊や華道など日本文化にも深く精通した人物であり、その建築は西洋建築でありながら、どこか日本の趣を感じさせるものだった。

コンドル設計の旧古河邸(東京都北区)

講師の東秀紀(あずま・ひでき)先生(元首都大学東京教授)によれば、鹿鳴館の出来に満足した井上は、次に日比谷全体をパリのような街並みをもつ官庁街に作り変えようとして、その都市設計をやはりコンドルに任せた。しかしコンドルはあまり都市計画が得意ではなかったようで、そのプランは、派手好きの井上の望むものとは、まったく異なる地味なものだった。

ビスマルクも魅了したパリの都のように

「当時、フランスの首都パリは世界で最も美しいと言われた都でした。フランスとプロイセンが戦った普仏(ふふつ)戦争(1870-1871)で勝利したプロイセン首相でドイツ帝国首相のオットー・フォン・ビスマルクは、パリに入城してその華麗さに魅せられてしまいます。そして帰国した彼は、首都ベルリンをパリと同じような美しい都に作り変えようとしました」(東先生。以下「 」内同)

パリの都市計画とは、19世紀にナポレオンⅢ世がセーヌ県知事オスマンに命じて行わせた開発で、古い建物を壊し、都市を次のようなものにドラスチックに作り替えることだった。

(1)中世からの曲がって狭い道を作り直し、広く真っ直ぐなブールヴァールと呼ばれる幹線道路を引き、両側に並木を植えた歩道を設ける。
(2)道路工事のために接収して壊した建物の跡に、高さやデザイン、様式など外観の揃った建物を立て直して、まるで遠近法の絵のような新しい街並みをつくる。
(3)中心的位置には、オペラハウスや凱旋門などのシンボル的建築、構築物を置き、そこから放射状に道路が延びる構成とする。
(4)衛生的な上下水道を整備し、多くの健康的公園を配置する。

19世紀のパリが衛生的な町かというと、やや疑問な部分もあるが、とにかく井上はパリやベルリンを模した、派手なプランをコンドルに期待していたのである。

しかしコンドルは、直角にきっちり区画した、シンプルで地味なプランを出した。これにがっかりした井上は、ドイツの世界的建築家である、エンデ&ベックマン事務所にプランを依頼し直した。

そこで出てきた案は、下のようなものだった。

エンデ&ベックマンの日比谷官庁集中計画プラン

当時鉄道が開通したばかりの新橋駅(汐留駅)から更に鉄道を北に延伸させたところに、中央駅をつくって、その前に放射状の道路をもつ広場を設け、周りを東京府庁や警察庁、裁判所、劇場(オペラハウス)、鹿鳴館、ホテル、レストランなどが取り囲む。 そして皇居の向いの日比谷方面に進み、博覧館、博覧会場を通り抜けると、外務省をはじめとする官公庁の西洋館がずらりと並び、そこから国会議事堂、首相官邸がある丘までは、緩やかな坂を登っていく、という演出豊かなデザインだった。

そして都市計画より軍事優先の時代に

派手好きな井上はこのプランに満足し、さっそく実行に移そうとしたが、1887年、欧米との不平等条約改正の作業がはかばかしくないと世論の非難を浴び失脚してしまう。官庁集中計画のうち、旧司法省など建設された建物もいくつかあるが、多くは中断し、この計画自体、潰えていった。そして、鹿鳴館の華やかな歴史にも幕が下ろされた。

「井上の後に東京の都市計画を担当したのは、陸軍と内務省に官僚制を打ち立てた山県有朋(やまがた・ありとも)でした。井上と同じ長州出身でありながら、派手好きの井上と正反対の山県は、機能的な道路中心の都市計画を立てます。これは今後の日本が日清・日露の戦争を行っていくためには、都市計画に官費を多く使っていくことはできないとの判断からでした。以降、日本の都市計画は、機能優先、道路中心になっていくのです」

なぜロンドンはパリにならなかったのか

パリのような東京・日比谷。見てみたいような、見てみたくないような。講座終了後、東先生に質問をした。「同じ世界的都市であったロンドンをまねなかったのは、どうしてなのでしょうか?」

「ロンドンをまねなかったわけではありません。銀座のモデルはロンドンのリージェント街でした。しかし官庁街となると、井上はもっと人目にひくものにしたかったのでしょう。

当時ロンドンは、パリに並ぶ大都会でしたが、パリのように邪魔な建物をどんどん壊して、道路を幅広く真っ直ぐにし、建築は高さ、外観を統一して絵のような街並みにするということはしない、というより、できなかったのです。イギリスでは地主である市民階級の権利が強く、王権による土地や建物の強制収容など不可能だった。そのかわりに、王や貴族たちの狩猟場や庭園を公園にして、市民たちに開放し、上下水を整備して都市の衛生問題を解決しようとしたのが、イギリスの都市計画です。

その結果、ロンドンの一人当たり公園面積は今も27㎡とパリの約2倍以上で、東京は23区で今もわずか3㎡にすぎません。でも、こうしたロンドンの田園都市的性格を再現しようと、関東大震災後あるいは戦後の日本人たちはパリよりも、むしろロンドンをモデルにした都市計画を始めます」

ちなみに、東先生は最近『アガサ・クリスティーの大英帝国』(ちくま選書)を上梓されたばかりで、今年度秋のオープンユニバーシティ―では、こうしたイギリス都市計画とミステリの関連について、観光の話題を交えながら話される予定という。

失われた鹿鳴館。挫折した日比谷官庁集中計画。明治維新150周年を前に、東京の歴史遺産について学び直すよい機会となった。

 

◆取材講座:「江戸・東京まちづくり物語」〈東京編〉(首都大学東京オープンユニバーシティ)

文/まなナビ編集室 写真/国立国会図書館、SVD 図版/蓬生雄司

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