最先端蘭学医の杉田玄白に首痛診させた大名夫人日記

「大名松浦静山の江戸暮らし――随筆・日記にみる松浦家の生活」@日本女子大学

江戸きっての文化人・松浦静山(まつらせいざん)が隠居後、20年にわたって綴った随筆『甲子夜話(かっしやわ)』は日本史研究に欠かすことのできない史料である。ところがその奥方も20年にわたって日記を綴っており、その日記も完全な姿で残っているという。大名夫人の日記は非常に珍しく、身近な人間から見た大名の暮らしがわかる(前の記事「「鳴かぬなら…」「鼠小僧」も、江戸最高のモノカキの人生」に続く)。

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松浦壱岐守上屋敷(国立国会図書デジタルコレクション「江戸切絵図」より)

江戸きっての文化人・松浦静山(まつらせいざん)が隠居後、20年にわたって綴った随筆『甲子夜話(かっしやわ)』は日本史研究に欠かすことのできない史料である。ところがその奥方も20年にわたって日記を綴っており、その日記も完全な姿で残っているという。大名夫人の日記は非常に珍しく、身近な人間から見た大名の暮らしがわかる(前の記事「「鳴かぬなら…」「鼠小僧」も、江戸最高のモノカキの人生」に続く)。

大名夫人の日記、しかも20年分も

江戸時代後期の平戸藩主・松浦静山の江戸での暮らしぶりを紹介する、日本女子大の公開講座「大名松浦静山の江戸暮らし――随筆・日記にみる松浦家の生活」。講師の吉村雅美先生(同大文学部史学科講師)から、非常に珍しい史料、松浦静山の側室が寛政5年(1793)から文化10年(1813)まで20年間綴った日記「蓮乗院(れんじょういん)日記」(松浦史料博物館所蔵)が紹介された。

蓮乗院(本名は松)は16歳から静山に仕えた。静山は生涯を通じて、女性が絶えることがない人物で、正室の鶴年(つね)は早世したが、何人もの女性との間に33人もの子供をもうけた(このほか1人は死産)。蓮乗院も2男1女をもうけたが、継承順位が上の男子の廃嫡、早世を経て、蓮乗院の次男熙(ひろむ)が5歳で跡継ぎとなる。寛政7年(1795)、蓮乗院は、熙を連れて江戸に上り、側室となる。

蓮乗院が江戸に上るちょっと前からつけていたのが、「蓮乗院日記」だ。日記は同時代を生きた人物の生の声として、歴史史料では大変重要視される。しかしプライベートだからこそ、なかなか残りにくい。地位の高い女性となるとなおさらで、大名夫人の日記では今までに、上野国(群馬県)沼田藩主・黒田直邦(くろだなおくに)の妻である黒田土佐子の日記「石原記」「言の葉草」など、わずかしか知られていなかった。

吉村先生によれば、「蓮乗院日記」の存在は、これまでごく一部の研究者にしか知られていなかったという。また、活字に起こされた部分もまだ、日記のごく一部にとどまっている。しかしそのわずかな部分を読んでいくだけでも、今まで知られていなかった大名の私生活が垣間見える。吉村先生はその一部を、講座で紹介した。なお日記とはいえ祐筆(代筆者)が書いているものと思われる。

平戸からかすていらを送ってもらい……

大名夫人の日記だけあって、「蓮乗院日記」には季節の行事が詳しく書かれている。たとえば寛政10年(1798)2月28日の「ひな飾り」の行事では、「殿様」(静山)から姫君へ人形が送られたり、女性に限らず「御役人中」(江戸詰の藩士たち)も「おひいな拝見」(人形の見学)を命じられたことなどが記される。

また、外出についての記事も多い。静山が江戸城に登城するときは帰りに神田明神(かんだみょうじん)へ参詣するのが慣例になっていたらしい(寛政10年正月元日条ほか)。

また、寛政10年10月21日には、娘や供を連れて、浅草から駕籠(かご)で入谷の鬼子母神(きしもじん)まで参詣して、神楽(かぐら)を見物したことが書かれている。供の者が賽銭を払ったとか、道中のお休みどころでお召替えをしたとか(蓮乗院だけではなく娘も。衣装を持っていくのも大変だったのでは?)、息子の熙への土産にと飴や柿を買ったとか、それは事細かに記述されている。別の日の記事では、平戸からかすていらを送ってもらったとかの記述もあり、とくに食べ物や衣装についてこまごまと書き留めているのは、やはり女性ならではの視点だ。

そして、松浦静山の交流を裏付けするような記述も出てくる。

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