戦国最強ストーカー男が生首披露も美人妻ケロリ

日本中世史講義 戦国ななめ読み(その1)@早稲田大学エクステンションセンター

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「この時期の光秀の文書っていうのはほとんど残っていない。信長を討った後、光秀はどう天下をつくっていこうとしたのかを確かめるすべはないんです。

わずかに残ってる文書のひとつが細川家にあてたもので、それには、とんでもなく夢みたいなことが書いてある。信長を討ったのは次世代のためだ、だから私はすぐに隠居し、天下の座は自分の息子と忠興殿にゆだねたい、だから味方してくれ、みたいなことが書いてある。

それだけ藤孝と忠興に味方してほしいという光秀の思いは切実だったんです」

切腹する利休をあえて見送り

細川父子の行動は、秀吉の明智討伐を間接的に助けた格好となった。しかし秀吉は細川家に冷たかった。細川家が秀吉に役に立たない存在だったならともかく、細川家は秀吉の対朝廷工作にさんざん利用されていたという。それなのに、領地を増やすなどの“おいしい話”は一切なく、細川家は豊臣政権のもとでは、丹後国一国12万石の大名のままだった。

「利用できるやつは利用しておしまい、という秀吉の冷たい一面を見るようだね。また、細川忠興も、利休切腹のときに、けっこう大胆な行動をとってるんだよね。

忠興は、利休の高弟中の高弟、“利休七哲”として、蒲生氏郷に次いで、高山右近とともに並び称されるほどの茶人だった。あれだけ弟子がいた利休なのに、秀吉に切腹を命じられて大坂に船で移送されるとなったら、見送ったのはたった二人だけ。それが、古田織部と、細川忠興。男気があるというか、何も恐れないというか、忠興は朝鮮出兵のときも向こうで苦労しているし、秀吉という人物に対してなにか思うところがあったのかもしれないね」

秀吉の死後、徳川家康と前田利家は秀吉亡き後の豊臣家をめぐって一時、対立したこともあったが、そのとき忠興は、前田のほうに馳せ参じている。利家の娘の千代が、細川忠興の息子・忠隆と結婚していて縁戚関係もあったし、なんといっても前田家には利休の高弟であった高山右近がいたから、“お茶”という絆もあった。しかしその前田利家も亡くなり、時代は“関ヶ原”へと大きく動いていく。

(続く)

〔教室のココイチ〕 人気の講座だけあって、受講生もびっしり。うち8割が男性か。歴史の講座は男性が多くて驚きます。

〔続きの記事〕なぜガラシャはクリスチャンなのに死を選べたか?

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講座データ
日本中世史講義 戦国ななめ読み 早稲田大学エクステンションセンター中野校 2016年度秋期

2016年11月29日取材

文/まなナビ編集部

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