中尊寺金色堂の阿弥陀如来3体のご尊顔が原寸で

【連載】国宝の見方が変わる「中尊寺金色堂」

平安後期、奥州藤原氏の初代清衡が造営した、岩手県平泉町の中尊寺金色堂。その内部には3つの須弥壇(しゅみだん)がある。中央に清衡の遺体を安置する須弥壇、その左右に2代基衡、3代秀衡を安置する須弥壇。各須弥壇には極楽浄土への願いを込めて阿弥陀如来像が安置されているが、このたび発売された 『週刊ニッポンの国宝100』第10号「中尊寺金色堂・慧可断臂図」(小学館刊)には、そのお顔が原寸で載っているのである。

  • 公開 :

『週刊ニッポンの国宝100』第10号「中尊寺金色堂・慧可断臂図」p10-11「国宝原寸美術館」より

平安後期、奥州藤原氏の初代清衡が造営した、岩手県平泉町の中尊寺金色堂。その内部には3つの須弥壇(しゅみだん)がある。中央に清衡の遺体を安置する須弥壇、その左右に2代基衡、3代秀衡を安置する須弥壇。各須弥壇には極楽浄土への願いを込めて阿弥陀如来像が安置されているが、このたび発売された 『週刊ニッポンの国宝100』第10号「中尊寺金色堂・慧可断臂図」(小学館刊)には、そのお顔が原寸で載っているのである。

金箔だけではない、贅を凝らした堂内装飾

中尊寺金色堂は、阿弥陀如来を本尊とする阿弥陀堂だ。造られたのは1124年。当時みちのくは日本随一の金の産地で、そこを支配する藤原清衡(ふじわらのきよひら)は莫大な財力を背景に、みちのくに平安京をもしのぐ仏国土を築こうと、 堂の内外に金箔を押した「皆金色(かいこんじき)」と称される阿弥陀堂を建立したのである。

その製作にあたったのは、平安京から呼び寄せられた一流の仏師や金工・漆工などの技術者たちだった。その豪華さは、ただ単に金色に輝いているだけではない、中央の須弥壇の柱には、1本の柱につき2040個もの夜光貝を用いた螺鈿細工(らでんざいく)が施されている。

さらに柱上部には蒔絵(まきえ)の菩薩像が施され、仏像の光背(こうはい)や荘厳具(しょうごんぐ)なども素晴らしい金工細工で作られており、まさに建築・仏像・仏具・装飾工芸などがセットになった仏教遺構として、燦然と輝いているのである。

奥州藤原氏3代の遺骸が今もそこに

金色堂の内陣には3つの須弥壇がある。中央の須弥壇には初代清衡の遺骸が安置され、左右の須弥壇には、2代基衡、3代秀衡の遺骸を安置されている。つまり金色堂とは廟堂(びょうどう)でもあるのだ。

火葬ではない。しかし、1950年の学術調査では、遺体が腐敗することなく保存されていることが確認されたという。金棺という特殊な環境や東北の気候が遺体の保存に作用したと推測されているが、真相はわからない。しかしこれほどの金色に包まれて眠る魂は安らかだったろう。

御本尊、阿弥陀如来のお顔が原寸で

現在、金色堂はその全体がガラスケースに収められており、また、皆金色のため、なかなか御本尊のお顔を詳しく拝することができない。それが原寸で見られるのが、『週刊ニッポンの国宝100』第10号p10-11の「国宝原寸美術館」だ。

中央壇の阿弥陀さまは円満でふくよか、西北壇の阿弥陀さまはキリッと細目、西南壇の阿弥陀さまは一回り小さくて子どものようにも見える。『週刊ニッポンの国宝100』の解説によると、西南壇の阿弥陀如来像は後でほかから移されてきたらしいとのこと。たしかに素人目にも作風が違うことがわかる。こうしたことがじっくり味わえるのも原寸だからこそ。

年間200万人を超える観光客が押し寄せる中尊寺金色堂。ぜひ同行者に自慢できるミニ知識を身につけて訪れたい。

『週刊ニッポンの国宝』画像をクリックすると、専用サイトが表示されます

〔あわせて読みたい〕
雪を描かずに雪を描いた天才画家は〇〇をボカした
国宝「縄文のビーナス」はなぜラメのように輝くのか

文/まなナビ編集室 写真協力/小学館

-教養その他, 日本文化
-, , , ,

関連記事