なぜガラシャはクリスチャンなのに死を選べたか?

日本中世史講義 戦国ななめ読み(その2)@早稲田大学エクステンションセンター

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慶長5(1600)年7月、挙兵した石田三成は、まず、上杉討伐に従軍していた諸大名の妻子を人質に取ることとし、大坂の玉造にあった細川邸に兵を向けた。ところが、ガラシャが死を選んだことで、三成のもくろみはしょっぱなから瓦解してしまう。

ガラシャの死は矛盾だらけ

「三成はもちろん、ガラシャを殺そうなんて思っていない。人質にしようと思っただけ。ところがガラシャが『夫の命令どおり、私は死にます!』と言い出したものだから、三成はさぞかしビビったろうね。

その言葉のとおり、ガラシャは、自分に仕えてくれた女たちと、前田利家の息女である息子の忠隆の嫁の千代を逃がして、死を選び、家来たちもその後、邸に火をつけて自害した。

でもここで気になるのは、キリスト教は自殺を禁じているのに、なぜクリスチャンだったガラシャが死を選ぶことができたか、ということです」

ガラシャの死に方については、首を斬られたという説と、心臓を突かれたという説がある。つまり、ガラシャ本人が自害したのではなく、他人が手を下したのだから自害にはあたらない、ということで、ガラシャは信仰と自害とを両立させたのだと、考えられてきたという。

「僕が子どものころに読んだ本にもそう書いてありました。でも僕は子ども心ながらに『これは屁理屈だ』と思った。他人が手を下したからのだから自害ではな、というのは屁理屈でしょう? 死に方だけの問題なワケ?と思った。そうずっと疑問に思ってきたんですが、安廷苑(あんじゅうおん)さんによる『細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯』(中公新書)を読んで、目が開かれた。

この本は、ガラシャの死について、非常に説得力がある本です。ご主人の浅見雅一さんは慶應大学の先生。この浅見さんと安廷苑さん夫婦の強みは、ポルトガルとスペインの史料が読めること。つまり、宣教師が本国に送ったレポートなどの史料が読めるんです。ガラシャがいかに忠興との結婚生活で苦悩を抱えていたか、そしてどうも彼女は自分の最期を予感していたらしいことが、この本には書かれています」

ガラシャは宣教師に対し、「細川邸が敵兵に囲まれたら、夫は私に死ねと言うでしょう。そのときキリスト教者である自分は自害してよいのでしょうか」というようなことを問うたという。

本郷先生によれば、これは、日本で布教活動を行なっていた宣教師みなが直面していた大問題であったという。キリスト教に入信した武士が切腹するのは名誉を守るための行為であるが、それを許してよいかと、宣教師はバチカンに諮問した。しかしバチカンの返答は「ダメ」。
「『腹を切らないで逃げろ』と説得せよ」。それがバチカンの答えだったという。

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